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見えすぎる社会④ ― 距離が消えたとき、人はどう壊れるのか ―
2026年04月15日 01:36
第4回:見えない関係の価値
― 距離という敬意 ―
私たちは、知らなくていいことまで、知ろうとする。
そして、その代償が何かを、まだ正確には理解していない。
これまでの連載で描いてきた通り、過剰な可視化は境界を壊し、執着を煽り、私たちの「個」を内側から削り取ってきた。
「見えること」が「繋がること」と同義になったとき、
私たちは、決定的に何かを取り違えた。
見えないことは、欠落ではない。
それは、他者を自分のものにしないための、最後の距離だ。
本来、他者とは完全には理解し得ない存在である。
相手が今どこで、誰と、何を考えているのか。
それを知らないという「空白」こそが、相手を他者として保つための境界だった。
想像力とは、埋める力ではない。
分からないまま、残す力だ。
既読を追わない。
位置を探らない。
間を埋めない。
そうした「見ない選択」の積み重ねが、関係の温度を守っていた。
見ないという行為は、いまやほとんど「抵抗」に近い。
それでもそれを選べるかどうかが、知性と意志を分ける。
画面を閉じること。
相手の「今」を追わないこと。
その小さな断絶が、壊れかけた境界線を修復する。
支配でも、監視でもなく、ただ波長が合うということ。
それは、お互いの孤独を侵さず、それでもふとした瞬間に同じ響きを共有することだ。
その一瞬の共鳴は、どれだけ情報を集めても手に入らない。
不確実性を受け入れることは、弱さではない。
見えない空白を抱えたまま、それでも相手を手放さない強さだ。
距離とは、愛の欠如ではない。
それは、愛が壊れないために必要な、最後の境界線である。
見えることで安心してきた私たちは、
見えないことでしか守れないものを忘れた。
問題は、社会が透けて見えることではない。
その誘惑を断ち切れるかどうかだ。
私たちは、他人を見ているつもりで、
気づけば自分の輪郭を削り続けていた。
今、必要なのは、他人を覗くことではない。
自分の内側にある、誰にも見せない場所を守ることだ。
そのとき初めて、人は壊れることをやめる。
他者と出会うためには、
まず「覗くことをやめる」しかない。
それができない限り、
私たちは、誰とも出会えていない。
それでも――
あなたは、見続けますか。
それとも、目を逸らす強さを持てますか。








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