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見えすぎる社会① ― 距離が消えたとき、人はどう壊れるのか
2026年04月12日 02:29
第1回:SNSが距離を消した
― なぜ“終わった関係”は終わらないのか ―
関係は終わったはずなのに、終わらない。
その理由は、単純だ。
相手が“見え続けてしまう”からだ。
ここ数年、ストーカー行為がエスカレートし、最悪の結末に至る事件が繰り返されている。
個別の事情は違えど、その根底には共通の構造がある。
「関係は終わっているのに、終われない側が暴走する」という現象だ。
関係は、本来同時には終わらない。
一方が幕を下ろしたとき、もう一方はまだ劇の最中にいる。
同じ出来事を、別の時間で生きている。
この“時間の非対称性”が、すべての始まりだ。
だが、それだけでは暴力にはならない。
決定的なのは、「境界の崩壊」である。
執着する者は、相手を意志ある他者として見ていない。
自分の空虚を埋めるための“物語の登場人物”として固定している。
だから、相手の「拒絶」は拒絶ではない。
自分の物語への裏切りであり、自分自身への攻撃として認識される。
相手を見ているようで、見ているのは
「自分の中に残った相手」に過ぎない。
それは愛ではない。
崩れゆく自分を繋ぎ止めるための、ただの自己保存だ。
そして現代は、この構造を加速させる。
かつては、距離が時間を解決していた。
会えないこと、見えないことが、関係を終わらせていた。
だが今は違う。
指先一つで、相手の「今」が流れ込んでくる。
自分のいない場所で続いていく、相手の生活。
その可視化が、拒絶を終わらせず、むしろ強化する。
「見えすぎる」ことが、想像を暴走させ、
終わるべき感情を、終わらせない。
問題は、愛の深さではない。
自分の物語に終止符を打ち、
その終わりを引き受ける力が、欠落していることだ。
関係は、すでに終わっている。
――終われないのは、相手ではない。
終わりを引き受けられない、“こちら側”だ。








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