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見えすぎる社会③ ― 距離が消えたとき、人はどう壊れるのか ―
2026年04月14日 01:28
第3回:可視化という監視
― 終われない構造の罠 ―
関係は終わっている。
だが、「見えてしまう」ことで、終われなくなる。
かつて、別れとは消息を絶つことと同義だった。
物理的な距離が、感情を冷ますための冷却期間として機能していた。
だが、テクノロジーが距離を消し去った現代、
私たちの視線は、終わったはずの関係の深淵へと容易に踏み込んでしまう。
それは、自ら進んでデジタル・ドラッグを啜るような行為だ。
SNSのオンライン状態、位置情報の更新。
「なぜ、自分を無視してオンラインになっているのか」
可視化された断片は、相手の沈黙という空白を、
最も都合の悪い物語で埋め尽くしていく。
見えないはずだった時間が、見えてしまうことで、
想像は、やがて執着へと変わる。
スマホの画面に映る足跡を辿る行為は、
一度踏み込めば、二度と引き返せない。
知るほどに、離れられなくなる。
相手の現在地を追い、交友関係を覗き、
その存在を“把握し続ける”ことでしか、自分を保てなくなる。
それは愛ではない。
相手という他者の自由を剥奪し、
自分の不安を管理しようとする、ただの支配だ。
可視化社会は、執着を増幅させる装置になった。
だが同時に、それは私たち自身の選択でもある。
画面の向こうにある「見えてはいけないもの」に、
自ら手を伸ばしているのは、他でもない私たちだ。
監視とは、相手を繋ぎ止める行為ではない。
相手の「心」という、本来見えないはずの領域を、
暴こうとする衝動に過ぎない。
問題は、見えることではない。
見えてしまったものを、
見なかったことにできない私たちの側にある。
関係は終わっている。
それでも終われないのは、相手ではない。
――こちら側の問題だ。








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