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- ソロモンフェチです。ソロモン諸島をめぐる日米消耗戦を小説にしています。生活は株投資、...
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日露戦争は120年前の2月に始まる。零下35度の戦い黒溝台会戦を知っているか
2024年02月05日 22:44
今日は久しぶりの本格的に雪が降っています。そこで120年前の2月に思いが遡る。
日露戦争は120年前の2月に始まりました。日露戦争は20世紀最大の事件です。
それまでは有色人種は白人には絶対に敵わないと見られていたのですが、
それが覆ってしまったのです。
それも当時陸軍は世界最強といわれていたロシアに、アジアの小国が真っ向勝負して勝利するなんて
世界中の誰もが思ってもみませんでした。
日露戦争で日本が勝った事で、世界観ががらっと変わってしまったのです。
仮にこの日露戦争で日本が負けたとすると、今でも朝鮮半島はロシア領、中国東北部(旧満州)も無論のことロシア領、北海道もロシア領になっていただろう。
日本が勝った事でロシアの南下を食い止めたわけです。
その後もロシアは満州を奪おうと南下政策は止めることなく続きましたけどね。
日露戦争は東郷元帥やら乃木大将やらが大活躍していますが、
黒溝台会戦という戦いが奉天会戦の前にあったのですが、この黒溝台会戦こそ日露戦争での戦いを
勝利に導く戦いだったのですが、ほとんどの人は全く認識していません。
この黒溝台会戦は、1月の極寒の時に、瀋陽(昔の奉天)の西側で行われた戦いです。
それも零下35度下で師団単位が真夜中に移動していくのです。今ではとても考えられないですね。
それも日露両軍合わせて15万人に上る日露両軍が極寒の中で戦ったのです。
黒溝台付近を守っていた秋山隊からの要請で、一番早く応援に駆けつけたのが立見尚文率いる第八師団
でした。
当時の参謀本部もロシアの大軍がこの極寒の中で大軍を率いてやって来るなんて考えても
していなかったから、第八師団だけで十分だと考えていたが、黒溝台の近くまで来ると
ロシア軍が10万を超える大軍団がいることがわかるのです。
しかも黒溝台右翼の種田部隊は退却を開始
左翼の牛居部隊も騎兵団に襲撃され退却、そうなると、右翼を守る秋山支隊や第八師団も当然のことながら包囲殲滅されてしまう。そこで戦いの天才立見は腹を括る。このままじっとしていれば包囲殲滅されるのは明らか。ならば黒溝台に向けて進軍あるのみ。そして黒溝台付近での戦いで第八師団は、15700名中死傷者は5300人という大損害を受ける。
黒溝台会戦全体の死傷者が9300人だから、半数以上が第八師団から出たことになる。黒溝台付近での激戦知って、第5師団が零下35度の極寒の夜中に移動して駆けつけてくれなかったら
それこそ全滅していた事だろう。
第5師団が駆けつけてくるまで、第八師団は頑張り抜いたのである。
この第八師団の頑張りで、第2軍第4軍の主力部隊を含めた日本軍全体が
包囲殲滅されるのを防いだといえる。
この黒溝台会戦で負けていたとすると、奉天会戦も当然ながら無くなり、再度ロシアが南下してきて来る
ロシアは、バルチック艦隊を派遣して乾坤一擲の勝負をする必要も無くなるから、日本海海戦など起こらなかっただろう。
日露戦争の勝利は、黒溝台会戦での立見尚文率いる第八師団の頑張りにあるのである。
立見さんという人は戦の天才で、こういう人が大東亜戦争まで生き残っていたら
アメリカに勝っていたかも知れない。何を馬鹿なことをという人が多いでしょうが本当の事です。
アメリカに十分勝てるだけの機会はかなりあったのです。
上層部に優秀な軍人がいたらばの話ですけどね。
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