- 名前
- エンドウ
- 性別
- ♂
- 年齢
- 40歳
- 住所
- 愛知
- 自己紹介
- 飲食店で激務の傍ら、休日は愛車と気ままなお出かけをすることが多かったのですが、最近は...
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子どもと言葉
2005年10月15日 22:20
子どもは、特に男の子は自動車や電車、飛行機などの乗り物が好きな傾向にあります。
道路を走る自動車たちに手を振り、喜びの声を上げますね。
例え重症患者を乗せた救急車が過ぎったとしても、そんな事実知るはずもありませんから大喜びします。
なぜそこまで惹かれるのでしょうか。
恐らく、大きな車体が動く様が力強く、憧れを抱くのではないだろうかと思われます。
エンドウさんもそのような、乗り物が好きな子どもでした。
絵本の中でも乗り物が登場するものは特にお気に入りでしたし、実際に乗り物を見ることに喜びを感じていた記憶がかすかに残っています。
母から聞いた話です。
エンドウさんの家の近所にはいつもダンプカーが停めてある家がありました。詳しいことは知りませんが、土木関係の仕事を営んでいた家であったようです。
若干1歳のエンドウさんはそのダンプカーをいたく気に入っていたそうです。動いているところを見たことはないのですが、その存在感は格別のものでした。
だから、その家の付近を通るたびに俺はダンプカーを見て、とても嬉しそうにしていたそうです。
母と散歩をするとき、ダンプカーは常に駐車場に停めてありました。
しかし、一度だけ停まっていなかった日があったそうです。
いつも楽しみにしていたダンプカーがない。そのときの自分の心情なんて覚えているものではありませんが、母によるとダンプカーがないことに気がついたエンドウさんは一言だけ声を上げたそうだです。
「なっ」と。
1歳といえばまだ「わんわん」だとか「ばいばい」といった一語文でしか言葉を操ることのできない時期ですね。
俺は言葉の発達が遅い方であり、そのときは一語文すら扱うことができなかったそうです。
言葉とは単にそれが持つ意味を伝えるだけではなく、使う人間の気持ちや心を伝えるものです。
いつも楽しみにしていたダンプカーがない。そのときの自分の感情の動きはどのようなものであったのだろうか。
何よりも、驚いたことであったと思います。
いつもあるものがなくて悲しいとか残念とか、そんなことは思わずに、ただただ驚いたのでしょう。あるはずのものがないという、初めて経験する不思議な現象。
今まではダンプカーが必ずあることが、幼い私の世界を構築する条件の一つでした。しかしそれがない。
世界はひとつ、広がりを見せる形で変容しました。
小さなエンドウさんの頭は事実を客観的に捉えることができず、己が感じた不思議さを表現するしか術はなかった。
驚き、不思議さ、世界の広がりなどの様々な衝撃が、「なっ」という一言に凝縮されていたのでしょう。
大人から見ればほんの一言であり、他愛のない言葉です。
しかし、その短い言葉の中には、小さな子どもなりの精一杯の気持ちが込められているのです。表現が未熟である分、その一言の持つ意味はとても高密度であるのだ。
人間が生きていくためには欠かすことのできないものがあります。
それは空気と水、そして言葉です。
空気と水は自然の恵みであり、生命として必要なものである。しかし人間が生きていくためにはそれだけでは足りません。
人間は文化を持っています。その象徴たるものが言葉なんですよ。
子どもに好まれる絵本として『おおきなかぶ』や『さんびきのやぎのがらがらどん』などが挙げられます。
これらの作品が好まれるのは絵本の定石である繰り返しが用いられている物語ということもありますが、その際の描写が非常にリズミカルで親しみやすいという点が大きいと思われます。
絵本の読み聞かせをする際には、ストーリーを理解させようとしたり、ものの名前を言い当てさせたりするようなことは避けて、言葉の響きを楽しむことができるように読むのがよいでしょう。
・・・というのは、不良学生なりにも保育を学んでいるエンドウさんからのアドバイスでした。参考までにどうぞ。
言葉は生命を支え、人間を人間足らしめる大切な文化です。
特に子どもにとって言葉とは知識として得るものではなく、その響きを感じるものなのである。そして、さまざまな思いを不器用に乗せて発せられるものなのです。
いつしか、幼い我が子の精一杯の言葉を耳にする日が訪れるかもしれない。
まだまだ当分先の、もしかしたら出会えないかもしれない我が子の姿を夢想しながら、その時は暖かく言葉をかけようと思ったのでした。
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