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赤ちゃんポストは誰を救うのか
2007年04月18日 00:09
ゴミ箱と呼べばいい。
熊本市の慈恵病院が計画する、子育てが出来ない親から新生児を預かるシステムである「赤ちゃんポスト」の構想を知ったとき、そう思ったものだ。
慈恵病院は赤ちゃんポストのことを「こうのとりのゆりかご」と呼んでいる。赤ちゃんを運んでくるという伝説にあやかったネーミングだ。しかし、赤ちゃんを運んでくるのは伝承の鳥ではなく、事情はあれども子どもを育てることが出来なくなった親である。罪悪感を持たせるためにもゴミ箱と呼ぶべきだと思うのだが、ダメなのだろうか。
赤ちゃんポストの運用は早ければゴールデンウイーク明けに始まる見通しだ。
日本では毎年200人ぐらいの捨て子があるという。また、親の虐待によって生命の危機にさらされる赤ちゃんは少なくないそうだ。そんな実情を憂うならば、赤ちゃんポストも生命を守るひとつのシステムとして役割を担うかもしれない。
ただ、赤ちゃんポストの発案者は自らもまた親に捨てられた体験のある者なのだろうか。また、賛成している人間には、順調に子育てをしている親や児童養護施設など過ごした経緯を持つ人もいるのだろうか。どうも「赤ちゃんの生命を守りたい」という気持ちが先走ってしまって、当の子どものことを忘れているように感じられる。
「子捨てを助長する」などといった批判が少なくないのは、あくまで子育てが困難な状況に陥った親から緊急避難的に新生児を預かるためのシステムとしながらも、匿名性を救済の意義としているところが反対意見の温床となっているからだ。
一時的な預かりシステムというよりも、匿名で合法的に赤子を放棄することが出来るものとして機能した場合、親が放り出した全ての責任を背負う覚悟があるのだろうか。
病院は命を救うのが使命で、養育は里親や施設が担うものとでも考えているのなら生命を守るという大義が暗転する。子どもの命とはその場その場のものではなく、最低でも大人になるまでの連続した時間として捉えるべきだろう。子どもが成長し、自分が社会的に認可された形で捨てられたと知ったときにあふれる感情は計り知れない。その時に「あなたの命を救うためだった」と説明するのは、利己的だ。
赤ちゃんポストが救うのは新生児ではなく、むしろ親のほうだと感じられて仕方がない。
慈恵病院の理事長は「捨てられた赤ちゃんを黙って見過ごすのは、虐待で亡くなる子をそのまま見ているのと変わらない」と言う。
確かにそれは正論だ。棄児を見過ごすわけにはいかないというのは、正義感には違いないのだろう。ただし、それは推測の善意にしか過ぎず、件のポストに対して赤ちゃんが何を思うのかを知る者はいない。
大人の配慮と子どもの感情がどう折り合いをつけていくことになるのか。
もう走り出してしまったのだから、せめて良い方向に転んで欲しいものだ。
このデジログへのコメント
賛否両論で難しい問題だね。赤ちゃんポストなんてネーミングも安易だけど利用者は出るのかな?
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