- 名前
- エンドウ
- 性別
- ♂
- 年齢
- 41歳
- 住所
- 愛知
- 自己紹介
- 飲食店で激務の傍ら、休日は愛車と気ままなお出かけをすることが多かったのですが、最近は...
JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。
様々な形でも気持ちはのせて
2007年01月02日 23:59
俺が現在アルバイトをしている書店は年中無休である。
おまけに近隣のライバル店と競合するために営業時間が深夜1時までとなっており、年末だろうと年始だろうと変更はない。運の悪いことに1月1日の夜のシフトに組み込まれてしまった俺は、新年の初日をレジカウンターに立ったまま終えることとなった。
年の節目もへったくれもないサービス業があちこちで展開されているご時世だ。そんなことで泣き言を言うなと叱られるかもしれないが、他の奴の都合なんて知ったことか。正月ぐらいのんびりしたいという気持ちはどこへ行けばいいんだ。ばかやろう。
まったく、風情のないことではないか。
風情がないというのは、正月の行事とて例外ではない。
年始の代表的な行事といえば、やはり年賀状だろう。元々は遠いところに住んでいるなどの理由により直接新年の挨拶ができない人への、年始回りに代わるものとして始まったものだ。それがいつの間にか年始回り自体とすり替わったようである。
年賀状はハガキによって行うのが基本的であるが、近年ではお互いに携帯電話のメールで済ませたり、メールで返事をすることもざらではない。
パソコンの普及や年賀状作成ソフトの流通により、年賀状を書くのは随分と簡単な作業になった。しかし、年賀状ならぬ年賀メールは新年の挨拶をさらに簡略化している。物事は単純にすればするほど味わいが薄れていくので、ひとつの文化である年賀状がメールに取って代わられるというのは物悲しいものもある。
ただ、俺自身も住所を知らない相手にはメールでもって年賀状の代わりとしているので一概に非難できるものでもない。
年賀メールが珍しくもなくなってきたことには、様々な背景が絡み合っているのだろう。
人間関係が希薄になってきてお互いに住所を知るところまで踏み込まないとか、家社会が崩れたために家の枠を飛び越えた個人間の挨拶へと質が変わっているとか。はたまたそんな小難しいことよりも、お手軽だから、好きなタイミングで送ることができるからという単純な理由かもしれない。
なんにせよ、ひとつ忘れてはいけないのはハガキだろうがメールだろうが、「あけましておめでとうございます」と挨拶が交わされていることだ。
決して人間関係がぶっ千切れているわけではないのである。
2006年が去り、新たなる年を迎えた。
単に日付が変わったというだけだと言えばそれまでなのだが、星の回転に任せてただただ年月を数えていくだけではどうも味気ない。1年の所々に行事を置くことによって節目が持たされているのは、生活が淡々としないようにと考えた昔の人の知恵ではないだろうか。
かつての知恵が形を変えながら行き続けていると考えれば、年賀メールもそう悪いものではない。ただ、メーリングリストで一括送信してくるのはあまりにも風情がないので、それは勘弁して欲しい。
このデジログへのコメント
コメントを書く