- 名前
- エンドウ
- 性別
- ♂
- 年齢
- 41歳
- 住所
- 愛知
- 自己紹介
- 飲食店で激務の傍ら、休日は愛車と気ままなお出かけをすることが多かったのですが、最近は...
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「障碍=個性」論について
2005年07月24日 00:48
ワードファイルの整理をしていたら、二年前に書いたレポートが発掘されました。
「障碍=個性」論に賛成か反対か、というお題の試験レポートです。
くだらねえデジログでも書くか~と思っていたところに出てきたので、原文のまま掲載してその代わりにしますよ。
レポート試験は、評価する人間の好みに合わなければ単位が認められないという悲しい一面があります。
エンドウさんは「障碍=個性」論大賛成派の先生宛に賛成を装った揶揄を送りつけたので、当たり前のように不合格でした。
実際はどのような理由で不認定となったのかはわかりませんが、反対意見であったためということで多分間違いはないと思います。まあ、いろいろとありましたので。
そんな次第で、価値観の違いの前に散華したエンドウさんのレポートです。
機ァ崗祿押畍沈」論への賛成
まず初めにこのレポートにおいては障碍を従来通り障害と表記することを明記しておく。個性という概念をどのように捉えるかによるが、私は障害もまた個性であると考える。人間はたとえどれ程に没個性的であっても個人が独立した存在である以上、自身あるいは周囲の評価にかかわらずそれは個人の個性であると私は考える。そのため、障害それすなわち個性という考え方について特別に反論する理由はない。
供ゾ祿乙擇啗沈という概念についての再定義
「障害=個性」論について論じるには、まずは障害および個性の概念を自分なりに再定義しなくてはならない。辞書に定義されている内容に従うのならば初めから議論をする必要などはないからだ。
まずは障害の概念を定義する。障害は身体または精神が正常な機能を果たしていない状態であると考えられる。肉体および精神の構造上において機能するべきはずの動作に対して妨げとなる症状が障害である。ひとが障害に対してどのような観念を持とうが実際問題として機能上の不具合があることは現実であるわけで、日常生活を送る上で特別な配慮が必要とする場合がある状態を総合的にくくったものが障害である。
次に個性の概念を定義する。前述した通り、個人であり自身が世界においてただひとりだけの存在である限りその存在自体が必然的に個性である。個性とは人格及び身体などにおける個体差を指すものであり、それは人間社会や地球環境などのあらゆる対象にとって良いあるいは悪いといった倫理で区分されることのない、単純に個体の特徴を意味するものである。以上のことから、個性というものをより正確に表現するならば、それは人間の個体差である。
以上二つの定義から、障害は文字通りの意味、つまり機能にとっての障害である。しかしそれもまた個性の範疇に含まれる個体差であり、よって障害は個性である。「障害=個性」論に対し、「人に迷惑をかけるのは個性ではない」と言う意見も上がる。しかし、繰り返しになるが個人の有する何らかの特徴が個体差でありすなわち個性なのである。個性という言葉は常々良い印象を伴って用いられる言葉であるが、個性とは両義性を持った概念である。すなわち対象にとって良い効果をもたらそうが悪い効果をもたらそうが、そのような価値観に左右されることのない概念が個性なのである。
掘ド眈紊垢詭簑蠹
「障害=個性」論は障害者に対する認識を改めるための切り口になる反面、現実問題としての障害という状態を曖昧にしてしまう懸念がある。「障害=個性」論が持ち出される状況には共通点がある。障害者が自分の持つ障害の部分を肯定したい場合や、障害者の親が自分の子供が障害を理由に差別されないようにしたい場合など、つまり障害は決して特別ではないということを主張したいときの理由として持ち出されるのである。しかし障害を個性と捉えることは可能であるが、それでも障害者が特別な配慮が必要な場合があるという状態に対しては何の意味も持たない。加えて、健常者からの意見の中には個性に対してなぜ支援が必要になるのかという疑念をぶつけてくるものもある。そういった問題に対して解答を出せるのであろうか。障害者に対し否定的な態度をとるひとにとって、障害も単なる個性と主張されてもそれは簡単に納得できないものであろう。障害も個性という認識を深めるだけでは解決しない問題である。
また、国際障害者年行動計画(1981)においてひとつの障害者観が「障害者は、その社会の他の異なったニーズを持つ特別の集団と考えるべきではなく、その通常のニーズを満たすのに特別の困難を持つ普通の市民と考えるべきなのである」と表現されている。ここで言われている特別の困難というのが障害すなわち障害者の個性である。皮肉めいた言い回しをするならば、「君は普通の生活をするのに対して特別なことが必要だけれどそれは君の個性のせいなのだから仕方のないことだよね」ということである。障害を受け入れることの出来る人間であるなら特に問題はないだろうが、逆に障害を受け入れられない人間にとっては「障害=個性」論は酷な考え方なのではないか。
人々が障害もまた個性であるという考え方を持てたとして、それでもその個性は特別な配慮を必要とするものであるという点は変わらないわけであるからして、そのために生じる疑念に「障害=個性」論は対処しきれないのではないかと思われる。障害を単なる個性のひとつの形態として社会に認識させようとすれば、主張と現実との間に歪を生じさせることは必至であろう。
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障害は個性である。ただし、そう認識することによって障害に対する特別視がなくなるとは到底考えられない。障害はひどく特徴的な個性であるがゆえに好奇あるいは嫌悪の眼を集めかねない。仮定として、「障害=個性」論が世間に浸透したとする。そうあったとしても、障害を持っているがゆえに特別視を受けるという状態から障害者の個性ゆえに特別視を受けるという状態へと物事の表層が移行するだけであろう。障害を個性とみなす認識は考え方として有効であるが、障害に対する観念を個性と取り替えただけでは人間の排他的な一面は払拭できないのではないのか、というのが私の「障害=個性」論に対する考え方である。
当時は大真面目に書いたので気に入っていましたし、今読み返してもこれはこれで面白いと思います。
まあ、捻くれている感じは否めませんけどね。
別にエンドウさんの意見が必ずしも正しいわけではありませんし、だからといって先生の考え方が絶対というわけではありません。
様々な価値観があるから対立が生まれる反面、おもしろくもあるわけです。
・・・なんだか2年間のうちに事を曖昧にする術を覚えてしまった気がします。
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