- 名前
- エンドウ
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- 飲食店で激務の傍ら、休日は愛車と気ままなお出かけをすることが多かったのですが、最近は...
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霊峰御嶽
2006年08月07日 23:49
名古屋市で36.4℃、郡上市八幡村や下呂市金山町では38.6℃という高い気温を記録した8月5日、僕は木曽御嶽山を登頂していた。
日差しこそ容赦なく照りつけるものの、3,000m級の山はまるで別世界のような涼しさでした。名古屋の蒸した熱風の不快さとはまるで異なり、山肌をなでる風の心地よさには格別のものがありました。
御嶽山は広大な存在感を持つ単独峰であり、連峰であるアルプスの山々とは異なる雰囲気を持ちます。また、その神聖感から信奉者からは神の山と崇められています。
僕が登った日はちょうど御嶽教の夏山登拝の時期と直撃していまして、多数の信者に混じって山頂を目指すという形になりました。
御嶽山を霊峰と仰ぎ、熱心に登拝をしている人には悪いんですが、僕の感性はそこに神を感じることはできません。神性の起源は神話にさかのぼることができるそうですから何らかの要素はあるのでしょう。しかし僕にはでかい山程度にしか捉えられないわけです。
さらに私事になりますが、年間に多くの登山者が訪れるために足場の岩々が磨耗して滑りやすくなっているところに、不注意から見事に足を滑らして体のあちこちに痛々しい擦り傷を負った身としては「この野郎!」とさえ思ってしまいます。
登山前に山間の神社で安全祈願をした際に、どうしても我慢できなくてすかしっ屁をしたので、件のアクシデントは神の怒りに触れたことによるものだったのかもしれません。
まあ、転倒したのは下山時であり足に疲れがきていたので、十分に起こりえる事故だったわけです。仮に神罰だったとしても、悪意なき生理現象に厄災を見舞うような心の狭い神なんて願い下げですがね。
今回の登山は父からの誘いによるものでした。
小学生の頃は父が登山愛好会のようなサークルに参加していたので、割と頻繁に登山をしていた記憶があります。僕が大きくなるに連れて次第に機会が少なくなっていきましたが、中学校卒業時には記念として泊りがけで山に行きました。
また、二人の妹もそれぞれの小学校卒業という節目にて一泊二日の登山を経験しています。
父は多くを語らないので、登山が彼にとって何なのか、正確なところはわかりません。ただ、口下手な父が子どもたちと言葉を介さずに語り合うための、ひとつのコミュニケーション手段なんだろうと思っています。
御嶽山は単なる山のひとつにしか過ぎないというのが僕の見解です。
ただ、父にとっては非言語的な会話に用いたツールであり、信奉者にとっては霊験あらたかな神の棲む場所であるということです。
見るものによってあらゆる意味を持つし、持たされる。それは山に限ったことではなく、いい意味でも悪い意味でも、万物に通じる概念だと思いますよ。
このデジログへのコメント
体温より気温が高くなるとさすがに辛い。えりは夏休みにダーリンと富士山に登る計画中。
前、木曽に住んでたので御岳を登拝する人たちをよく見かけましたが、私もやっぱり「?」でした^^;
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