- 名前
- あおい
- 性別
- ♀
- 年齢
- 39歳
- 住所
- 茨城
- 自己紹介
- あおいもバツイチになってしまったの。4年ぶりに再登場よ。 誰かお相手してくださいな。。
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生瀬の乱!!
2008年02月10日 19:19
慶長7年(1602)水戸城主 佐竹義宣は、徳川家康より、秋田移封の命をうけました。この時に、年貢の取り立てについては、完全徴収を期することになり、領内の代官は一斉に徴収を開始したのです。
久慈郡小生瀬村(現大子町大字小生瀬)には、6月から7月に代官所の手代が入村したと思われます。
純朴な村民は、非常な困難をおして、年貢を完納しました。しかし、役人は、多忙を理由に、領収証を発行しないで口約束のみで帰ってしまいました。
それと入れ替えに、徳川家康の時代となり、早速年貢の取り立てに着手しました。
小生瀬村に、取り立ての役人が、9月下旬に入村し、村人は既に完納していることを申し立てましたが、全く認められなかったのです。
そこで、村の長老たちが合議し、今度の来村者は偽役人に違いないという意見が多発し、その結果役人を襲撃することになり、鎌や鍬を手にして役人に襲いかかったのです。
このため、3人は殺されてしまいましたが、2人は床下にのがれ、その2人は夜闇に乗じて水戸城へ逃げ帰りました。
水戸城ではこの結果を受け、兵150人を派遣し、村民を皆殺しにすることとなったのです。
10月9日、村に通じる4方の道路から突入して、一人足りとも逃さないで、老若男女を問わず、槍玉、斬殺という手法で村民550余人を惨殺したのです。
今に残る地名として、地獄沢があります。これは、逃げ込んだ領民百数十人を一人残らず惨殺し、その鮮血は河流のごとくであったといいます。
また、経塚があり、これは領民の遺体を埋葬し、その上に植樹をした塚だということです。
これを、後世、生瀬の乱として伝承されたのです。
水戸徳川藩270年の歴史の中で、最も悲惨な大事件であったのですよ。
このウラログへのコメント
真面目な内容をそれも裏で書く女性初めて見た~
好きですこの様な真面目な話
表で僕も書いていますが(笑
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