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節分会
2011年02月03日 15:47
今日は2月3日、節分ですね。私にとっては1972年2月3日、第10回札幌冬季オリンピックの開会式の日と覚えております。
それでは節分とは
節目を分ける日
毎年二月三日または四日は「節分」と呼ばれ、所によっては「節分祭り」が残っています。また、昔はこの日のことを「年越し」という場合もありました。おそらく立春の日を一年の初めとしたこともあり、その名残りなのでしょう。だからその日の前日を節分と呼ぶわけです。
しかし、もともとは季節の分かれ目にあたる立春・立夏・立秋・立冬の前日も節分と呼ばれていたため、一年に四回はあったことになります。なのに、なぜ現在は立春の前の節分だけが残っているのでしょう。それは、区切りとして一年を無事に過ごせたことに感謝し、翌年の「予祝(よしゅう)」をするために、特別な祭りをしていたからだそうです。「鬼は外」「福は内」という豆まきのかけ声も、そのことをよく表していますね。
鬼の正体
節分祭りには鬼がつきもので、村人が扮した赤鬼や青鬼が「鬼は外」のかけ声とともに投げつけられた豆に追われ、退散する場面が演じられるという風習が残っています。この「鬼を家などの自分の領分から外へ追いやる」という行為には、災いや病気といった不幸の原因が外からやってくる、つまり「自分のせいではなく環境の方に原因が有る」という考え方が表れています。確かに自然の猛威による災害などについては、その原因が自分にあるとは考えにくいものです。
しかしお釈迦さまの真意である法華経を読んでも、日蓮聖人の遺されたお手紙「ご遺文(いぶん)」を読んでも、病気や対人関係を始め身の回りに起こる災い、ひいては天災にいたるまで、すべて自分たちの心の中に大もとの原因があると説かれているのです。
自分の中の鬼
自分の中の鬼 地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)といえば「三悪道(さんなくどう)」といって、現世で悪いことをすれば死んだ後に落ちる、とても恐ろしい場所だといわれてきました。つまり、鬼はそうした世界の象徴とされていたわけです。しかし三悪道の意味は、それだけではありません。法華経では「三悪道はすべての人の心の中にあるものだ」と説かれています。地獄とは、自らの身を焼きつくす炎のような怒りの心。餓鬼とは、求めても求めても飽き足らない欲望。畜生とは、物事に執着し分別をわきまえない愚かな心。こうした心が知らず知らずの内に起こり、周囲に嫌な思いをさせたり、後で自分も嫌な思いをしたりということが、日常でもよくありますね。
さて、こうした心の動きが自分の苦しみの原因となっていると聞けば、誰でも一つや二つ思い当たるふしがあるでしょう。しかし、まったく偶然としか思えないようなこと、たとえば相手に対して悪いことをした覚えがないのに突然非難されたり、また天災の被害にあったりすることまでも、実は私たちの「心の中の鬼」が原因なのです。「まさかそこまで?!」と思われるかもしれませんが、私たちの心が無意識の内に様々な悪い原因を作り、それが縁でつながっているところに「現象として現れる」ことも決して否定できません。
心の宇宙の不思議
ある種族の「無意識の想い」が一致し、一定の段階に達すると、その種族全体の体型が一挙に変化するということがあるそうです。たとえばここ二十年ほどで、日本人の体型には急激な変化が起こりました。かつては北欧(ほくおう)の人たちにも同じことが起こり、かなり短期間で現在のような長身になったそうです。さらに地質時代と呼ばれるほどの大昔には、森から草原に出たある種のサルの仲間にも、同じことが起こったと発表した学者もいます。個々の想いが、必ず現象となって現れる。良くも悪くも「私たちの心が環境の在り方を決める」というお釈迦さまの教えが、ここにも証明されているのです。
法華経を読むと、お釈迦さまの悟られた法が、物理学者のいう「宇宙を支配している法則」を包み込むほど深く広いものに感じられます。日蓮聖人も「自分の心の外に法があると思っている内は、まだ妙法とはいえない」ということをご遺文に示しておられます。心の中の法を知り、心の中の鬼をコントロールすることができれば、お釈迦さまが法華経に説かれるように、私たちが住むこの世界がそのまま仏さまの世界になるはずです。そこはお釈迦さまが「我がこの土は安穏(あんのん)にして」と説かれる通り、天災さえも起りえない安らかな世界となるでしょう。
成仏つまり「法を悟る」とは、自分の心の中ををよくよく見つめるところから始まります。実際、安穏であるはずの国土を住みにくくしているのは、私たちなのですから……。
祈願
全国の寺院でも、よく「節分会」が行われます。その時に一年の安泰を祈願する人もいらっしゃいますが、初詣と同様、かなり「個人的な祈り」にかたよる場合が多いようです。特に「星祭り」では個人個人のお札(ふだ)を頂きますから、そうした傾向は強いでしょう。でも、それだけで良いのでしょうか?
本来、仏教における祈祷(きとう)とは、仏さまの「大いなる智恵と慈悲の光」を受け、すべての人がお釈迦さま同様の人格を持てるよう祈ることです。もちろんこの祈りを実現するためには、家族の健康や融和(ゆうわ)や安定した生活も必要でしょうから、それらを祈るのも決して悪いことではありません。しかし熱心な法華経の信者であった宮沢賢治氏の言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」が示すように、私たち一人一人の幸せは、他人の幸せと決して切り離しては考えられないのです。
ちょっと深い意味で考えた例文ですがこういうこともあるんですね。
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