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覚者、グル、指導者?への盲信と、人の考え方感じ方(認知)の仕組み、構造について
2010年04月10日 23:34
特に入念に書いたりはしないけど、ある人がスピリチュアルな第三、第四身体とかに言及する形で、グルへの盲信の原因について書いていたが、そのような身体論的?な捉え方は、少しおいらには理解しにくいので、もっと分かり易い形でおいらなりに書いてみたい。
1、覚者
まず和尚もときどきそのような言い方をしていたはずだし、一般的に流布されている、覚醒した人はエゴから解放された、何ものにも囚われない、空の境地に生きているとか、なにか普通のひとではけして知ることのできない、高いというか、なんと言って良いのか分からないけど、そういう境地にあるとされている。
こういう言い方は覚醒もしていないおいらの理解であり、こういう言い方で良いのか分からない。まあ荒っぽく言えばそんな言い方で、表現されたりする。
2、その覚者の弟子とか、彼に従う求道者
覚者がいて、彼に従う弟子や求道者などがいる。この弟子らは、覚者が体現している覚醒の境地には至っておらず、その境地を自らのものとすべく、修行している、とかいえるのだろう。この中にも、その精神的な修行の?進み具合のよって、さまざまな階層化があると思う。
3、普通の人
覚醒などということに関心はなく、日常生活に取り紛れ
無自覚に生きている。
まあ、別にこんな風に厳密に区別されているわけではないだろうけど、意識の覚醒などということに関わる人々の世界では、大まかに言えば、こんなような区別があのではないだろうか。
覚醒するということを最高の価値とすると、そのような考え方感じ方の中には、当人たちは否定していても、その論理的な構造の中に、そうい階層化が生じる。というかそれ無しでは成り立たないような関係構造がある気がする。
おいらの場合で説明すれば、和尚を盲信していたころは、和尚はとてつもなく深く広大な覚醒を実現した人であり、その弟子となったおいらは、和尚のそういう境地などとても及ぶところはなく、ただただ愚かで無自覚で、欲望に囚われ、特定の思考に囚われ、混乱して生きているものであり、瞑想などをとおして、和尚が体現している覚醒した意識に辿り着くべく努力するしかない。おいらの人生における悲惨の全ては、その覚醒が無かったことが原因だ。
こんな風に考え、極端に言えば自分の考えたり感じたりしていることなど、エゴや思考に囚われたものであり、和尚の考え方や感じ方などの正当さにはおよぶべくも無い、
おいらはそういう無知蒙昧な人間に過ぎない。と、和尚と比べて自分をとてつもなく低く見ていた、感じていた。
こういう感じ方考え方の構造の中にいる限り、おいらは和尚の言うことを批判することのできるはずが無く、和尚の言うことを何でも受け入れるしかない、そういう人間になっていた。
もうやめる。ただこういうことを考えていくことで、グルへの盲信というものがどういう形、なにが原因で起こるかということを、探っていくことが出来るはずだと思う。
かれの書いていることに、何かしっくり来ないのは、
おいらはこういうことを考えていくだけで、グルへの盲信とかいうものがどのように起こるか、もっと分かり易い説明ができるような気がするからだ。それがおいらの和尚への盲信から自由になってきたみちだった、からだけど。
おいら自身がそういう、覚醒ムーブメントの考え方、認知の構造を自らのものとしていたから、和尚に対しては深く依存するとともに、そういう道に入ろうとしてすらいない人たちに対しては、どこか高みから見下ろすような考え方、感じ方をしていた。
だからこそ、逮捕された直後の数年間、同じような闘いを闘った、東アジア反日武装戦線を名乗った人たちに対して、強い批判を繰り返した。
和尚のサニヤシンのある部分が、今は少ないかもしれないけど、以前、和尚を批判し始めたプラブッダに対し、執拗なというか強い批判を加え続けたりしたのは、同じような精神構造、認知の構造がその原因となっている。のだと思う。
ちなみに、おい等は自分のありようを捉え直す中で、おいらが東アジア反日の人に抱いた怒りは、トラウマが癒されていなかったからではなく、上記のような覚醒ムーブメントの中における価値観、世界観など依ってたっていたため、それにそぐわない批判などが受け止められず、自らがの価値観に反するものとして怒りを抱いたのだということも分かってきた。怒りはトラウマから生じるのではなく、
自分の依拠している、対立的な価値観、世界観から生まれていることも自覚できるようになった。トラウマの様なものは、そうした価値観に余計な歪みを作り出すような形で影響を与えてはいるけど、トラウマによる怒りを投影していたわけではなかった。
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