- 名前
- そよ風タンポポ
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- 年齢
- 75歳
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- 岐阜
- 自己紹介
- 私は61歳になる独身の男性です。さまざまな困難な体験を経て、今はありのままの自分を生...
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さして意識していなかった母の命日に、若き母の手紙を見つける
2010年01月22日 23:03
おいらは余り人の命日を覚えていない。
父や母の命日、和尚の命日ぐらいは覚えているけど
特にその日に何かをする気持ちにならない。
妹は逆で、本当に多くの人の命日を覚えている。
その記憶力のよさには感嘆する。
父の命日が1月17日、和尚の命日?が19日
そして母の命日が22日
こんな風で覚え易いこともあり、覚えている気がする。
ちなみに父の誕生日は関東大震災の日で、1年後かな
命日も阪神大震災?と日付は同じかな
よく妹がそのことを言う。
ところで今日、夜になって倉の片付けものを先日した後に出てきた、ゴミを燃やしていて、ふと包みの中にあった古い手紙を燃やす寸前に、ちょっと中身を見てみようと思い立ち、幾つかの手紙を読み始めるうちに、母が長女が生まれた直後に生家から父あてに書いた手紙を見つけてしまった。長男義紀を赤痢で5歳くらいにしてなくした後、5ヶ月ほどして長女千代子を在所で生み、その可愛さを父に書いているような手紙だ。義紀がなくなったのは祖父の赤痢が移ったからだが、そのことを自分の不注意のように書き、思い出されてならないとも書いているが、新しく生まれてきた千代子も神からの授かりものであり、可愛くて仕方がないこと、あなたもこの子の父であり、私の大切な夫
ですから、健康に気をつけて丈夫に生きてください、というような、真情の溢れる手紙だった。
私には父と母の関係は、不和の、いがみ合いや、何か悲しい思い出が多いから、この手紙は新鮮だった。ああ、母と父の間にも、こんな愛情の通い合う間柄であったときがあるのだと、リアルに認識した。ちょっとホッとした。
これはまさしく母の命日に母からの贈り物として与えられたのだ。
とはいうものの、昔の人の手紙は読みにくく、内容は定かでないが、母が親しく師事していた、筒井敬一という公明な天理教の教会長の母あての手紙数通や、昭和29年頃母が近くの人に5万円ほど借りた借用書が3通ほど出てきたし、岐美大教会の会長の手紙、岐美大教会への10万(今なら100万円くらいか)のお供え、寄付の証文なども出てきた。父が当時胃潰瘍で県病院に入院し、いの大きな手術をし、そのことからの回復を願った母が、加藤家のあり様の変革も願ってだろう、積極的に天理教徒として活動していた時期のことだ。覚えていることは筒井先生らとともに、障害者のケアー施設のようなものを作る準備をしていたというようなことだ。そのことに関わると思われる筒井先生の手紙もあった。
退院してきた父が、誰かがねたんで告げ口、食言というのだろうか、筒井先生と母は性的な関係も結んでいる、母は筒井さんにほれ込んでいる、みたいなことを伝えたため、父はそれを信じて母に対し怒りをあらわにし、親族会議も開いて離婚をしようとした。母は事実無根であると主張したが、誰もそれを認めてくれるものはなく、大教会の女の会長もそれを事実とした上で監督不行き届きで申し訳なかったと父にわびた。母はそんなことを含め、誰も私の味方をしてくれなかったと、後に幼い私ら子供に涙ながらにかたった。その頃から母はよく酒を飲むようになった。
そんなことも思いだした。
母の命日。
その母の悲しみ、とともに、父に対して愛情、真情のあふれる手紙を書いていた母のことも発見し、自分の出生も
いがみ合う父と母の間で起こったことではないだろうと、
少し思えた。ああのいがみ合う父と母がセッツクスをともにし、そこから私が生まれてきたのだというような、私の出生に対する醜さのようなものを感じ続けているところもあった私に、そうではなかったらしいという、暖かい感触
を母の手紙は与えてくれた。
ありがとう、お母さん
あなたの命日のプレゼント
確かに受け取りました
このデジログへのコメント
> そら@世界さんへ
コメントありがとう。本当に不思議ですね、母の命日に燃やそうとしていたゴミの中から、母の大切な手紙を見つけるなんて。
何かしら無いけどその不思議さに感謝しています。
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