- 名前
- 月乃
- 性別
- ♂
- 年齢
- 52歳
- 住所
- 千葉
- 自己紹介
- 心理士の資格をもっています♪ついでに自動車整備士の資格、大型免許やバイク免許etc持...
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やれば出来るっ!(はずなのに・・・)その1
2009年10月23日 11:32
週末だし、秋だし、暇がある人は
夜にでも読んでやって下さい。
ちょっと長く書いてみようと思います。
長すぎるのでその2はウラログへ
回します。
まぁでも時間が無いとか、読むのが
面倒な人のために最初に結論を
書いちゃいます。
色々あって(ここを長く書きます)
整備士の資格を取る事になった
のだけれど、整備士学校に通ってて
卒業する時は首席、つまりトップの
成績で卒業しました。
校長から(というより県から)
表彰されて賞状をもらいました。
でも色々あって(ここも長く書く)
整備士の仕事が出来なくなって
今はまったく畑違いの保育の仕事を
しています。
保育の仕事はちゃんと社会保険にも
入っているし税金も払っているし、
本当なら長く続けたいけれど・・・
実際の所は時間給になっていて
(明細上は月給制)時間もハーフタイムで
給料がとても安いので、やっぱり
ちゃんとしたフルタイムの仕事に
就かないといけないなぁって
思っています。
やるとしたらカウンセラーの仕事を
したいなって思っています。
でも今は全てが燃え尽きてしまった
感じで何も出来ません。
何に対しても興味を失っています。
(こっちはウラログで長く書こう)
やる気さえ戻れば出来るはずなのに、
何も出来ない状態のままです。
それは昨日も書いたけれど、今や
将来に対して、何か明るい希望
みたいなものを感じ取れないから
なのかもしれません。
本当に好きな恋人でも出来れば
やる気が戻るような気がしています。
それには再び人をこころから愛して、
信じて、許して安定した気持ちで
毎日を過ごせるような関係を作らなければ
いけないんだろうなって思っています。
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じゃあこっから長いバージョンで。
僕は記憶がある頃から、既に親に
愛されたり大切にされたりして
育っていないなぁって思ってきました。
風邪、病気、怪我・・・
すごく体が弱くて一ヶ月のうち
半分は寝て過ごすような子でした。
親にとっては手のかかる「大変な子」
だったと思います。だから病気や
怪我をしたら、心配より先にまず
ひどく怒られました。
とても調子が悪い時に(風邪を
ひいたり熱をだしたりって自分の
責任じゃないのに)いつも激しく
怒られて、引っ叩かれていました。
やがて妹が産まれて、僕が小学校に
上がった頃から、それは暴力に
変わってゆきました。幼児虐待です。
この頃、両親はよく喧嘩をしていて、
父親は酒を飲むと激しい暴力を
振るうようになりました。
母親はヒステリーを起こして
僕に対して八つ当たりをしました。
母親からは何時間も正座をさせられ
怒られ続けました。
妹には決して手をあげることは
なかったけれど、僕に対しては
かなり酷い暴力や暴言をぶつけて
きました。
ただ玄関にランドセルを置いて
いただけで、ただ宿題をやらなかった
だけで、歯が折れるまで殴られ、
冬の夜の寒空に放り出され、鍵をかけられ
「お前なんかいらない!出て行け!」
と何時間も家に入れてもらえない
事も多々ありました。
そんな幼児期を過ごしてきて、
最初に自殺を考えたのは幼稚園の時。
団地の五階に住んでいて、そこから
飛び降りてしまおうと毎日地面を
眺めていまいsた。
やがて引越しをして一軒家に
住むようになって、そこから暴力が
始まったのですが、小学校の二年生
くらいで家に誰もいない時には、
包丁を腹にあてて何時間も
このまま刺してしまおうって
座り込んでいました。
それでも他人に対して、自分の中の
フラストレーションをぶつける事は
せずに、人を傷つけたり暴力や暴言を
吐いたりする事はありませんでした。
攻撃の目は常に自分。
両親からだけでなく、自分で自分を
攻撃していました。悪いのは自分の
存在そのもので、自分を殺して
しまえばいいんだって思っていました。
幼稚園の頃にはあまりに虚弱体質で、
体も小さかったから、ひどいイジメ
にもあっていました。
更に悪い事に、僕には肩にアザが
あって(五百円玉くらいの大きさ)、
プールの時などは周囲の子の
恰好の興味の対象となって、
気持ち悪い。なにそれ。って
遠ざけられ、いつも逃げるように
一人で過ごしていました。
近所の子にもイジメられたり、
集団で暴行を加えられたり、
女の子に囲まれて下半身を
もてあそばれたり・・・
だから遊ぶときは一人で
公園の砂場で遊ぶ事が多かったし、
イジメをしない優しい女の子の
集団とばかり遊んでいました。
女の子とばかり遊んでいるから
その事でも親から激しく怒られました。
幼稚園の時、男の子がウンチを
するために女の子用の(トイレが
別れていなかった)個室に入ると、
それだけでイジメの対象になりました。
僕はおなかがとても弱くて
しょっちゅうトイレに入って
いたのだけれど、いつも見つからない
ようにコソコソと誰もいない時を
見計らってトイレに行っていました。
そんなある日、個室に入っている事が
見つかってしまって、そして安全の
ためにか個室にはカギがついていなくて、
ズボンを下げて座っている状態で
外からドアを開けようと、男の子達が
何人も一緒になってからかいにきました。
その騒ぎを聞きつけて、女の子達も
たくさん寄ってきて、トイレは子供達で
いっぱいになってしまって、
僕はそれでも必死に内側からドアを
抑えて開けられてしまわないように
必死でした。
けれども大勢の力にかなうはずもなく、
ついに力で負けてしまって、
ドアが開けられてしまい、ウンチを
している姿を大勢の前にさらされて
ひどい恥ずかしさと屈辱を味わいました。
小学生になっても、それがトラウマに
なってトイレに行くことが出来ず、
教室で(しかも給食の時間に)
なんどもウンチをもらしてしまう
ということがありました。
そんな子だったから、いつもいつも
イジメられていました。小学生に
なっても男の子がウンチをするのは
イジメの対象でした。
三年生くらいになると知恵がついて
授業中にトイレに行くことを覚えたので、
そういう事は無くなってゆきましたが・・・。
さて小学生になった僕は、やっぱり
体が弱いままで、プールの授業も
肩のアザがあるという事だけで、
ひどいイジメが続きました。
そんな時に始まったのが、父親からの
暴力でした。学校にも家にも逃げる
場所はなく、そんな小さな子だから
児童相談所の存在など知るはずもなく、
その頃には虐待の問題などは家庭内の
事だけで片付けられ、近所の人にも
通報の義務などなく、暴力はエスカレート
してゆきました。
三年生くらいから親に無理矢理
泳ぎの練習のためにプールに
通わされて、僕は肩のアザを隠すため、
顔を肩にくっつけて隠していました。
それが原因なのかわかりませんが、
僕の首の骨はくの字に曲がっています。
その時に女の子の水着は肩まで
隠せるようになっていたので、
本気で女の子になりたいと思いました。
そうそう幼稚園の時も、体が弱かった
から女の子とばかり遊んでいたので、
なんで自分は女の子じゃないんだろう?
女の子になりたいと強く思っていましたね。
そんな自分でも、おとなしい男の子の
親友が出来て、プラモデルを作る事を
教えてもらってから、それに没頭して
そしてガンプラ(ガンダムのプラモデル)
が大流行した時期とも重なって、
自然に友達が増えてゆきました。
そうしてようやく学校の中に自分の
居場所を見つけ、放課後も友達の家に
遊びに行くことが多くなり、家から
離れる事が出来るようになってゆきました。
ところが家では相変わらず暴力が
続いていました。
今から考えると、専門用語に
なりますが解離性健忘といって
一時的に記憶をなくしてしまう事が
よくあって、また恐らく高次機能障害
があって、どうしても何かを記憶する
という部分が欠損していて、
物忘れが異常にひどかったんですよね。
思考能力や感情を制御したり、
あらゆる能力は普通なのに、
学習障害(いわゆるLD)があって、
たとえば帰りの会でプリントを
もらっても、家帰ったら忘れている
というくらい重度のものでした。
そのおかげで、すぐに何でも
忘れてしまうから、忘れ物キングの
称号を欲しいままにしていました^^;
教室には忘れ物を一つすると、
シールが一個貼られるという表があって、
他の人はせいぜい五個か六個の所を
僕だけが表を突き破って
二段目に突入していましたから・・・・
そんな感じで、小学校の四年生くらい
までは親の暴力は色々な理由で
(ランドセルの置きっぱなし、
宿題忘れ、プリント忘れ、授業で必要な
ものを持っていくのを忘れる、虚弱
だったので給食を残す、その他その他)
続いていました。
暴力がピタリと止まったのは、五年生
になってからでした。その頃、学校では
朝練というのがあって、有志だけだった
のはずだったのですが、友達に激しく
「なんでお前だけやらないんだよ!
全員やらなきゃいけないんだぞっ!」
と責めたてられ朝練に参加するハメに
なりました。
それは実は陸上クラブの練習で、
毎朝早く(六時に家を出る)から
ジョギングをして体を鍛えるという
ものでした。
ちょうど成長期だった僕は、朝練に
参加するようになってグングンと
力をつけて、一年も経たないうちに
学校で五本の指に入るくらい
走るのが速くなりました。
駅伝大会などにも出場するようになり、
更に力をつけて、陸上クラブの中でも
三本の指に入るくらいにまでなっていました。
この頃になるとラジコンブームが
やってきて、プラモデルが好きだった
自分はすぐに飛びついて、更に友達が
増えてゆき、もう学校で自分をバカに
したりイジメたりする奴はいなくなって
いました。
小学校五年生の時に、自分の人生を
決定的に変えてくれた恩師に出会いました。
その先生は新任の先生だったけれど、
とても優しくて温かくて、そして何より
陸上クラブの顧問の先生になったので、
僕と先生の間には他の児童にはない
連帯感が生まれました。
その先生が六年生も同じく担任に
なった事も幸運でした。僕はその
先生が受け持った最初の卒業生に
なりました。
その先生が喜んでくれると思って、
それまで全く関心が無かった「勉強」
を一生懸命にするようになりました。
僕は相変わらず忘れ物がひどくて、
勉強しても成績が上がった訳じゃ
ないけれど、陸上クラブで一生懸命に
頑張っている事や、勉強も頑張れるように
なって、すごくよくやってるんですよと、
親に熱心に説明をしてくれました。
親も「どうも自分の子は何やら
人に対して恥ずかしいくらいの
落ちこぼれだ」と、それまで思っていて、
それが暴力にまで発展したけれど、
その先生の言葉で、また実際に
残した結果で「世間体を保てるようになった」
という事で満足したのか、
暴力を振るわなくなったのです。
中学に入ると迷わず陸上部に入りました。
陸上ではもう学年トップになるほど
実力をつけて、一年生から駅伝の
選手に選ばれるほどになっていました。
楽しい仲間や優しい先輩に囲まれて、
これまでにないとても楽しい時間を
過ごしました。ただ勉強だけは・・・
やっぱり物覚えが悪くて成績は
最悪でした。
中学二年生になる直前頃に、
さすがにこれはマズいと自分で
気が付いて、塾に行くようになって、
体力がついて無理がきくように
なった事もあって、毎晩夜中の
三時くらいまで必死になって勉強を
しました。
そうして気が付いてみれば、高校受験では
進学校に通えるほどの成績になり、
親はもう何一つ文句を言わなくなりました。
そうして高校生になりました。
高校では部活には入らず、最初から
大学受験の事を念頭に入れて
(大学に行く気はほとんど無かったけれど)
ひたすら本を読んだり勉強をしたり、
空いた時間はゆったりと過ごす平和な
日常を送っていました。
高校は進学校だったけれども、とても
のんびりした校風で、イジメや暴力も
なく、ワルもいない学校で、また
勉強に力を入れている学校だったので、
学校の予習復習をしていれば、かなりの
率で大学に入学出来る学校でした。
ただ・・・やっぱり記憶する
学習は大の苦手で、日本史や世界史
といった部類は苦労しました。
頭で考えて点数を取るような科目。
化学とか生物、数学(物理だけは
先生がムチャクチャ嫌な人だったので
全く勉強しませんでした・・・)
などはほとんど満点を取っていました。
まぁそんな感じの環境だったので、
勉強はソコソコ出来る方で、
大学の推薦を取る事が出来ました。
それでも団塊ジュニア世代の僕らは
普通に大学受験をすると、倍率が
200倍は当たり前という、とんでも
なく激しい受験戦争の時期でした。
なので推薦を受けたからといっても、
必ず合格出来る訳ではなく、僕は
工業デザインをやりたかったので、
その専門学校に行くつもりでいました。
ただ、ここで親がまた口出しをしてきて
「大学に行かせてやるって言ってる
んだから、大学に行け!」と
専門学校に進む事を許してくれません
でした。その頃になると、もう考えも
大人に近くなっていたので、
「大学受験(受験戦争)から逃げている」
と思われるのが悔しくて、
受験だけはしようと思っていました。
ちょっと話が戻りますが、高校では
図書室が自分の最高のお気に入りの
場所で、本ばかり読んでいました。
そこで心理学の本と出合いました。
本を読んでいると、今まで言葉に
出来なかったそれまでの成長の過程で
味わってきた様々な感情に、答えを
与えてくれるような気がして、
夢中になって心理学の本を読み漁りました。
そういう経緯があって大学選びは
心理学科がある大学という事だけで
選びました。推薦が取れたといっても
当時から心理学科は人気があって、
推薦入試でも倍率が120倍という
とんでもない状態でした。
なので「どうせ落ちるだろう」と、
で受験はするけれど、落ちたら
専門学校に行くよと、親に宣言したので
すっかり落ちた気分で、もう専門学校に
いくつもりになっていました。
ところが大学に受かってしまったんです。
心理学科ならどこでもよかったので、
有名大学に行けるくらいの力は
あるんだからたとえ浪人してでも、
有名大学に行ってほしいなんて、
親や学校の先生の言葉なんて
完全に無視して、平凡な私立大学を
選びました。
その大学選びが(元から行く気が
無かったので)後から凶と出るなど
全く気が付きもしませんでした。
大学はすごく遠くて、片道三時間半!!
往復で七時間もかかる所にありました。
最初は一人暮らしをしていたのですが、
(書くのが面倒になってきたので・・)
諸々の事情から友達に裏切られて、
一人暮らしは半年しか出来ませんでした。
それからは往復七時間をかけて
大学に通うハメに・・・
朝は毎日四時半に起きて、帰りは
毎日十時前でした。通学だけで
体力を奪われて勉強どころではなく、
また大学に行くつもりがなかった
自分は勉強そっちのけで、寝たり
遊びほうけたりしていました。
二回生になって授業が減ると、
今度はバイトに明け暮れるようになり、
成績は下がる一方でした。
大学では偏屈な人間が多くて、
またクラブ活動も通学時間の関係で
出来なくなり、バイトが楽しくて
遊ぶのはバイト仲間とばかりでした。
バイトは地元(というか家から
歩いて五分くらい)だったので、
遊ぶのも地元という事で、バイトだけが
楽しみになっていました。
そこで度々ブログに出てくる
七年半付き合った女性。
初めての彼女が出ました。
そんなこんなで大学三回生。
バブル崩壊です。いきなり
就職氷河期ってのが襲ってきました。
これから就職活動という時期に
襲ってきたものだから、あわてました。
大学生活はバイトと遊びに呆けていて、
勉強なんてほとんどしていません。
進路変更して大学院に進学したいと
教授に申し出たら、アンタは成績が
悪すぎるから推薦なんて出来ないよと・・・
そこでまた悔しくなって、猛勉強して
いきなり成績が上がったから、教授が
「頑張れば出来るんだから大学院へ
行って見る?推薦は出来ないけれど
一般枠で受けてみたらどう?」
と言ってくれるまでになりました。
そこで(幼稚園から大学院まで
一貫性の学校だったので)頑張って
浪人してでも大学院に行けば良かったのですが
何だかそれも悔しくなって
「いえ。就職する事にしますっ!」
と断ってしまいました。
とは言ったものの就職氷河期。
しかも今の時代と違って、
心理カウンセラーが認知されていない時代。
就職活動は困難を極めました。
それでも(なんと倍率200倍以上!)
の難関を突破して書店会社に就職が
決まりました。本が大好きだった自分は
とても嬉しくて、やる気満々で
就職しました。
けれど・・・待っていたのは想像を
絶する世界でした。一日の労働時間は
16時間当たり前。18時間とか、
時には徹夜してそのまま次の日の勤務へ
突入・・・・なんてこともしばしばでした。
それでも本屋という仕事は面白くて
性に合っていて彼女とも将来は必ず
結婚しようと誓い合っていたので、
頑張って続けていました。
このデジログへのコメント
小さい頃の傷は大人になっても
ずっと残るものなんですね・・・
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