- 名前
- エンドウ
- 性別
- ♂
- 年齢
- 41歳
- 住所
- 愛知
- 自己紹介
- 飲食店で激務の傍ら、休日は愛車と気ままなお出かけをすることが多かったのですが、最近は...
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明日は我が身、かもしれない
2008年06月12日 00:55
溺れる者は藁をも掴む。
危機が迫ってどうしようもなくなった時には、頼りにならないものにもすがりつくという意のことわざだ。藁なんか掴んでも助かるわけがないのはわかりきっているが、それでもすがりつかずにはいられない。それだけ追い詰められているということなのだろう。
かわいそうなのは果たして水没していく人間か、巻き込まれた藁か。
東京・秋葉原で起きた殺傷事件は記憶に新しい。
トラックで通行者を撥ねて、ナイフで次々と刺しかかった。負傷者は10人。死者は7人。滅茶苦茶だ。特定の人間を狙ったわけではない無差別の行為であることや、数日前からの犯行予告をしてきたことから、残虐で身勝手な犯行だという認識が妥当だろう。
「世の中が嫌になった。生活に疲れた。誰でもよかった」
逮捕後の容疑者の供述だ。その言葉から大量殺人へと至った理由は見出しがたく、凶行のなぜが問われていくらしい。しかし、無差別殺傷は目的ではなく単なる手段ではあり、供述は明白な動機だと僕は思うのだ。手当たり次第に殺したかったわけではなく、何かを伝えたかった。その方法が通り魔のごとき凶行になってしまったのではないだろうか。
「俺が必要だから、じゃなくて人が足りないから/誰が行くかよ」「希望がある奴にはわからない」「どうせ俺は社会的信用なしですよ」
容疑者が心境を連ねた携帯サイトへの書き込みが様々なメディアで公開されている。一連の書き込みを読むと、ひどく不安な状態にあったことが推測される。
誰からも必要とされていないという思いに打ちのめされる日々。自分の存在を認めて欲しいのに認められなくて、伝えたいのに伝えられなくて、煮詰まって追い詰められてどうしようもなくなって、その果てに屈折した方法しか見えなくなった。
たとえどれほど深い葛藤があったとしても、人を傷つける理由にはならない。他に方法はいくらでもあっただろう。自分を磨く努力をしていれば、やりがいのある仕事を探していれば、自分を一番に必要としてくれる家族や恋人がいたら、凶行には至らなかったかもしれない。しかし、そんな道義は無意味だ。溺れている人間に対岸からの声が届くものか。
絶対に保障された人生なんてないのだから、誰だって不安は持っている。それを感じない奴は幸福にまみれているかよっぽどの鈍感だ。みんな不安と戦いながら生きている。ただ、容疑者の戦い方はひどく歪んでしまった。事件前日、「もっと高揚するかと思ったら、意外に冷静な自分にびっくりしている」と書き込んでいることから、心の底では行為の無意味さに気づいていたのだろう。それでも後には引けなかった。最後に残された手段を放棄していたら、容疑者はたぶん自殺している。
「犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする」
僕は無差別殺傷の行為自体よりも、この言葉にもっとも陰惨さを感じる。
このデジログへのコメント
毎日平和に暮らすって事が当たり前に出来ない世の中になって来て哀しいね。他人を巻き込むなって感じ。
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