- 名前
- イチゴちゃん
- 性別
- ♀
- 年齢
- 43歳
- 住所
- 茨城
- 自己紹介
- 嫌がらせを受けていたのでコメント返しませんが それでもいいという方仲良くしてください...
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拝啓、イチゴさま 前編
2023年01月21日 22:30
~手紙より~
無知で愚かな私にも、自分の死期はなんとなくわかるものだ
だから、この手が動くうちに、君に手紙を書いておこうと思った
まずは、君に謝らせてほしい
本当に、君のことを忘れた日は1日もなかった
ずっと心の中心に、君がいた
本当だ
だが、君が何日に産まれたのかも
どこでとても元気に過ごしていることも
私は何も知らなかった
そんな私を、私は自分を許せない
君が私を恨んでいることは、何となくわかる
そう感じるんだ
もちろん君は何も悪くない、愚かな私が悪いのだ
謝罪は君が望むだけしたいし、それで許されるとも思ってない
しかしながら、私は君を心から想い、そして愛している
それは事実で、本心だ
いくつかの言い訳をさせてほしい
もしかしたら君の気分を害するかもしれない
だが、事実を
その時の私の行いと環境を
君に知ってほしい
祖国は長い、暗い洞窟を抜け出し
私を含めた全国民は、自由と民主主義を手に入れて間もない頃だ
幼い頃から、私は国の雰囲気が苦手だった
陰湿な顔で歩く大人、働く気のない大人
友人とのサッカーすら、声を潜めて行わなければならないような息苦しさがあった
全ては独裁者による国の支配が原因だった
私は国外に希望を見出そうと模索していた
近隣の国へ出向けば、仕事もあるし自由もある
そう思っていた私に、ある日街頭で見たテレビの向こう側が
私の心を激しく揺さぶった
スーツに身を包んだ男性たちが、ビルの前を闊歩し
おしゃれな女性たちが、笑顔で友人と街を散策する情景だ
テレビに映されたのは、全てが自由な国の日常
そう、日本の東京だった
私は日本に憧れた
いつか日本に行って、自由に暮らし家庭を持ち
家族との団らんのために、日々仕事を頑張る
かつて、私の祖父が言っていた「在りし日のスペイン」を
私は日本に見出した
幸運にも、国は方向を転換し
民主化への流れは濁流のように激しく、そして急速だった
1979年、20歳になった私は、働いて貯めたわずかな金を元に
あこがれの東京に降り立った
東京はとても素晴らしい街だった
人々の活気、交通網、
まだ祖国にはないものがたくさんあった
私はここで仕事を探そうと躍起になった
体力には自信があった、何でも出来ると疑わなかった
そんな時、私は日美子(仮名)と出会ったんだ
日美子はたどたどしい英語で私に話しかけてきた
「あなたはどこの国の人?」
私は驚いた
祖国でも英語を話せる女性はほとんど見なかった
日本は豊かで自由な国だから、性別に関係なく学ぶことが出来ると感心した
私は日美子に、日本に移り住んで暮らしたいことを説明した
彼女とは毎日、同じ場所で顔を合わすようになり
いつしか私は、彼女の暮らす部屋に移り住んだ
彼女はまだ幼いようだった
だが、私は既に彼女を愛していた
仕事が見つからず、帰国する日がきてしまった時
私は日美子に約束した
「またお金を貯めて、日本に来る」
彼女は笑顔で私に言った
「待ってる」
国に帰り、私は懸命に働いた
とにかく日本に行きたい
日本で生活したい
日美子に会いたい
その一心で、ただただお金を貯めた
パブにも行かず、タバコもやめ、自転車すら売り払った
私は日美子と日本に恋い焦がれていた
再び日本の地を踏むのに、1年と数か月を要したが
翌々年の2月、私は再び日本に降り立った
私はすぐに日美子の住む部屋を訪ねた
彼女は私を見るととても驚き、そして笑顔で迎えてくれた
私にとって、何物にも代え難い時間だった
2週間ほど、私は彼女の部屋を拠点に
毎日仕事を探しに出かけた
だが、私を雇ってくれそうなところは見つからず
私は途方に暮れていた
部屋で食事をしていると、日美子はいつもより元気がなかった
私はとても心配で、彼女に理由を尋ねた
彼女は言った
「両親から、好きではない人と結婚させられそうだ」
私はとても驚いた
私は彼女を説得し、結婚することを思い留めさせた
しかし、私は今だ仕事が見つからず、生活の礎を築けていない
何としても仕事を見つけると新たに気を張った
その矢先のことだ
街頭のテレビが、見覚えのある場所を映していた
23 de febrero、クーデターを起こした議会の喧騒を
刻々と伝えていた
私は驚愕した
国が軍事独裁に向かうということは、再び独裁の暗いトンネルへ戻るようなものだ
自由にふるまえること、日本に来ること
全てが水泡に帰すのを、私は恐れた
部屋に戻り、日美子に言った
「私は国に帰って、クーデターと戦う」
全ては、日美子との明るい未来のためだと信じて疑わなかった
日美子は言った
「行かないでほしい。ずっと一緒にいたい」
私も気持ちは同じだった
しかしながら、私はこの自由な恋さえも奪われることを恐れ
軍部と戦いたいと日美子に伝えた
思えば、この瞬間に日美子の気持ちは決まってしまったのかもしれない
私はすぐさま帰り支度を済ませ
可能な限り最短の方法で、祖国へ降り立った
国は驚くほど通常で
私が到着した時には、既にクーデターは終了していた
そして、国が自由を失うことも無かった
私は日美子に初めて手紙を書き
お金を貯めてすぐに日本を訪れることを約束した
頑張ったためか、翌年の3月に
私は三度目の来日を果たした
訪れた日美子の部屋に、彼女の姿は無かった
私は方々を探したが、彼女は見つからなかった
どうにかして、日美子の友人を探し出し
連絡をとってもらった
数時間後、私は待ち合わせのカフェ(喫茶店)で日美子を待っていた
ドアが開き、日美子が見えた時
彼女が手に抱くものを目の当たりにした
そう、赤ん坊の君だ
私は日美子に尋ねた
「この子は君の子なのか?」
日美子は言葉短く言った
「私とあなたの子。女の子よ」
私は驚くと同時に、とても嬉しかった
しかし、ここまで日美子は笑顔を見せず
私と目すら合わせてくれなかった
日美子は言った
「私、結婚したの」
それだけ言うと、彼女は赤ん坊を抱えて立ち去ってしまった
私は慌てて追いかけたが
日美子はタクシーに飛び乗り、どこかへ行ってしまった
私は必死に日美子と赤ん坊の君を探した
思いつく場所はどこでも行ったし、色んな人に尋ねた
しかし、見つからなかった
帰国の日が迫った
私は日美子の友人に手紙を託した
せめて読んでほしい、と
帰国後、私は再び仕事に没頭した
酒もたばこも、もちろん女を買うこともしなかった
そして、自分でも驚くほど
日美子が私の目の前から去ってしまったことよりも
赤ん坊の君と会えないことを、悲しんでいた
私は君と会いたい一心で、必死に金を貯めた
もう少しで日本に行ける資金が貯まりそうなとき
日美子から手紙が届いた
そこには、悲しい言葉がたくさん綴られていた
「あなたが立ち去った時、私はあなたに捨てられたと理解した」
「生きるために、好きでもない男と結婚した」
「あなたには一生、子どもを会わせないつもりだ」
私たちは互いに母国語でない言葉で会話していたせいで
意思の疎通がとれていなかった
彼女は私の言葉や行動を誤解し
私が日美子を捨てて、スペインに逃げ帰ったと思われていた
すぐさま、私は返事を書こうと思ったが
手紙に日美子の住所は書かれてなかった
この時、本音を言ってしまうと
日美子のことよりも、赤ん坊である君の事で頭はいっぱいだった
生まれた日も、名前すらもわからなかったが
間違いなく私の子だ
私はどうしても君に会いたかった
私はまた、日本を訪れた
前回同様、日美子の友人の部屋を訪れたが
その友人もまた、どこかへ引っ越していた
私は君に会う手掛かりを全て失った
そこから愚かな父がとる行動など、ひとつしかない
「充ても無くとことん探す」それだけだ
今回は、いつもより資金が豊富だった
滞在期間中、ずっと君を探して西へ東へさまよった
だが、手掛かりすらつかめず帰路に着いた
押し付けがましく言うつもりではないことを知ってほしい
私は赤ん坊の君を初めて見た1982年の3月から
33年間、日本に60回以上訪れて君を探したんだ
どうしても君に会いたかった
嫌われていたとしても、恨まれていたとしても
普通の父が娘に行う事を、私もしたかっただけだ
カフェで飲み物と会話を楽しんだり、リゾートで遊んだり
一緒に料理したり、やがては君に恋人を紹介されたりするだろうと
普通の父娘を夢見ていた
ハンシンで地震が起きた時は、君の安否を思うだけで眠れなくなり
ニイガタで地震が起きた時は、君の住む地域かもしれないと不安に駆られたり
フクシマで地震と津波が起きた時は、気が狂うほど泣き叫び自分の境遇を恨んだ
毎日、心に君を想っていた
次回へ続きます
このウラログへのコメント
待ちます、、、
複雑ですね
母上からは何か聞いていらっしゃったのでしょうか?
イチゴちゃんこんばんは。
少し話し複雑だけどイチゴちゃん次第かな?
会うのも会わないのもイチゴちゃんの一存で決めて良いと思うし、もちろんおじいちゃんおばあちゃんに相談するのも全然俺は有りだと思う。
やっと貴女の出生の秘密が明かされたのですね
どうすれば良いか
その答えの一つは、自分の本音に正直に
そしてもう一つは、相手が喜ぶことをする
です。正直、誠実、素直、そして貢献
貴女は既にそれを生きてる
次が 非常に気になります
そして 手紙が届いたことに驚き
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