- 名前
- イチゴちゃん
- 性別
- ♀
- 年齢
- 42歳
- 住所
- 茨城
- 自己紹介
- 毎日元気に働いてます ゆっくりだけど、はっきり喋ります^^ 嫌がらせを受けていたの...
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叶わぬ現実
2017年03月29日 08:13
親友が息を引き取ったという知らせが届いたのは
私が出社してそんなに経たないとき
すぐさま早退、有給の手続きをとり
社長に事情を説明して、無期限の休みを取得
そして、チケットを手配して渡英
訪問に覚えのある家では、近所の方や親友の友人が集まり
これから墓地へ向かうところ
弁護士さん(後の私のボス、親友のお友達)から説明を受け、言われた書類を渡し
何も分からぬまま、一緒にお墓へ
神父さんの言葉とともに親友は埋葬され、娘はただただ黙ってそれらを見つめてました。
ボスが諸手続きを全て行ってくれて、娘は私と一緒に日本へ移り住むことに。
ご近所へのご挨拶もそこそこに、娘はお部屋をお片づけし
そこで母と暮らした痕跡を消されたくないかのように
「ママのものに触らないで。」とだけ、私に伝えてきました。
私も黙って言うとおりにし、眠る際は娘のベッドルームに置いてあった椅子で眠り
持っていけるだけの荷物をバッグに積め、やんわりと娘を説得し
「このおうちは、ずっとこのまま残るんだよ。今度はパパの育ったおうちで生活するんだよ」と
半ば勇気付けるように話しかけました。
空港までの道のりも、飛行機の中でも一切何もしゃべらない娘は
泣くこともせず、黙って私に付いてきました。
半日後、成田に着いた私たちを両親が出迎え
「パパのパパとママだよ」と説明したときに、少しだけ微笑み
同じ香りがするのであろう、おじいちゃんに娘はそっと寄り添い
家路に着きました。
「何が食べたい?」
「どこか行こうか?」
「ゲームでもする?」
何を聞いても、「何でも良いわ」「行かない」「しない」と、あらゆる情報に関心を示さず
与えたお部屋のベッドに腰掛け、壁を見つめてなにやら独り言を繰り返してました。
父に話しかける際は「グランパ」、母へは「グランマ」
でも、私には「あのね」
ああ、私は家族じゃないのかな・・・と感じることもしばしば
そんな調子で、およそ1週間が過ぎた頃
幼稚園への編入手続きを終え、娘の必要なものを買い揃えていたときに
事件は起こりました。
トイレに行きたいと言った娘をトイレまで連れて行き、用を足し
洗面台で手を洗った娘にそっとハンカチを手渡すと
「これ、ママの匂いがする」と、ハンカチをまじまじと見つめ始めました。
それもそうかもしれません。そのハンカチは大昔に親友がくれたもの。
匂いこそ残ってないでしょうが、娘なりに何か感じ取ったのでしょう。
手をふくためのハンカチなのに、それをせず
ただただ黙って、ハンカチを握り締め
しばらくすると、何かを納得したように頷き
「はい、ママ」と、私にハンカチを渡してきました。
初めて娘に「ママ」と呼ばれた瞬間でした。
それまで、私は自分で「ママはね」とか「ママが」と言った1人称を決して使うことをせず
(娘のために、絶対に使わないと決めてました)
何が娘にとってきっかけになったかは、わかりませんが
ともかく、その瞬間から私を呼ぶ際の呼称は「ママ」になり
そこからは、とてもよく笑ってくれるようになりました。
私の意識もそこからガラっと変わり
何をするにも、何を伝えるにも「ママはね」を言うように
英語を教えてくれるようになったのも、そこから
なるべく英語を失ってほしくない(娘の母国語だという認識から)という思いと
親友が願ったこと(英語も日本語も、どちらも娘の母国語だから、どうか話せるようにしてあげてほしい)を叶えるべく
私は英語を猛勉強(大学時代の留学生相手には、嘘っぱち英語で何とかなってました)
娘は独学で日本語を学び始め(アニメや絵本、漫画など)
幼稚園に入園して2月後には、ネイティブになってました。
(しかも同級生よりも早く、自分の名前を日本語でかけるようになってました)
そこから私たち親子が、一気に加速していくのです。
続きはまた後で
このデジログへのコメント
イチゴちゃんをママ!と呼ぶまできっと親友と彼が娘さんに助けていてくれたに違いない。君達がこんなにも強い愛情と信頼で結ばれるとは凄いことだと思いますよ。僕は、年末のログでサプライズ帰省の話が大好き
久々に読める時間ができた~。色々大変だけど今がベストであれば!
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