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村瀬明道尼

2015年09月26日 08:47

村瀬明道尼

さんの「ほんまもんでいきなはれ」という著書には
生い立ちから月心寺の庵主さんにならはるまでのいきさつ、
禁断の恋、右手・右足を失った交通事故など、
とっても濃い人生が書かれています。
NHK朝ドラにまでなるほどの人生。



著書の中に、私も、走井の生き字引であるおばあちゃん(9代目)も知らない
事が書いてありました。

庵主さんが交通事故にあわはって、手足の自由が利かなくなった時、
うちの8代目がお祝いに行ったそうです。

「お見舞い」ではありません。「お祝い」です。

なんでこんな辛い思いしてるときに「おめでとう」なんて
ゆわはるの、と庵主さんは不快に思わはったそうです。

そらそのはずです。
庵主さんは当時30代。
生きるか死ぬかの大事故で、お習字の先生もお料理もできないと
絶望してはったころです。
庵主さんは月心寺でご奉仕はしてはったものの、
まだ月心寺には先代のご住職がおり、後継ぎとして決定した
地位でもありませんでした。

でもうちのひいおじいさんは続けます。
小町堂の小町は、血を見ることが好きでな。
うちでは娘が三人おったら、一番大きなけがをした子に継がすと、
お店が良く繁盛するって、昔からゆわれてますねん。
そやさかい、庵主さんがけがをしゃはったてことは、
月心寺で後継いで、ようようなるっちゅうことのお告げどっせ。」

8代目がたびたび大津へ行ってはったという事、
男の子がいても女の子に代をとらせたはったというのは
聞いたことがありますが、
庵主さんにお祝いに行ってたことも、
小町が血を見るのが好きなことも、
けがした娘に走井餅をつがしたはったことも、
娘である私のおばあちゃんも聞かされておらず、
私たちは大変驚きました。

そして顔を見合わせて、
「いや、私(11代目)けがしてへんし、お店流行らへんのと違うやろか。
そやけど、繁盛するからって大けがすんのも怖い…!」

まぁ、それはいいとして、
8代目は明治36年生まれなので子供のころは
その場所で育っています。
お庭の石段をピョンピョン飛んで遊んだはったそうです。

月日はたって、8代目も7代目に連れられて八幡へ来て、
庵主さんも水月寺の副住職として八幡へ来て、
そしてお参りという形で井口家で出会い
そしてまた大津へつながっていく…

不思議の一言でも片づけられないようなほんとに
不思議な御縁です。

うちにお参りに来たはったころ、庵主さんは
走井餅の包み紙を見て
そこに書いてある「百歳堂」という文字を気にかけ、
「これはなんですか?」と8代目に聞かはったことがあるそうです。

大津小町百歳像のことをお話しすると、
庵主さんは「私もいっぺん会うてみたいわぁ」と
いわはったそうです。

それが、いっぺん会うどころか
ずぅっとお守りしはることになるのです。

どうゆう御力で、どんな思惑で
村瀬明道尼さんと走井の井口家はひきあわされることと
なったのでしょう。
神さん?仏さん?
いや、きっと小町の仕業ではないかと私は思います。

初代より250年の思いを託し、
これからも走井と小町をそばでお守りいただくことを
お願い申し上げるとともに、あらためてその御縁に感謝いたします。
勝手ながら、走井が月心寺という立派なお寺となったことに
安心しています。

村瀬明道尼さんにはこれからも、その濃い波乱万丈の人生を
一日でも長く、お元気でいていただきたいと心から願います。

そして私も、走井の子孫として
場所は大津から八幡へ移れど
由緒深き走井餅を守り続けていこうと思います。

今まで10代の当主の波乱万丈を思うと
私は恵まれています。
清水八幡大神さん、ご先祖さん、お客さん、そして小町
たくさんに守られている気がします。
すべてに感謝し、今日も明日も11代目として胸を張り
走井餅を作り続けます。

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