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心配しないことと、主体的選択 直感を研ぎ澄ますこと

2010年02月10日 04:45

少し前に、心配しなくて良いということを感じたときのことを書いたが、おいらのそれに対する違和感は、何かそういう言葉が、スピリチュアルなことに関わる世界でよく言われている言葉にふと触れたものであり、それが何か神秘的なことに私が依存するような言葉に感じて、またそのかたをすかすようなこと?を書いた。
 それは結局、心配しなくていい生活とは、何か大いなる存在が自分にもたらしてくれるものではなく、日々の暮らしの中での自分の主体的選択に関わる事柄であり、研ぎ澄まされたというか、あるいは本当に根源的な性のある深みにあるものに繋がる何かを選択している生活している中でしか、うまれようのないかんかくなのだということだ。という感じ。

 昨日の朝のおきな枝100本の注文に関わる事柄は、そういうことに関わる事柄だ。確かにやればできないことでは出来ない気がするが、かなり難しいことであり、断わったほうが良かったのだと感じる。ちょっと難しいと感じたら断わること、そういうことをこのことは私に教えてくれている、そういうレッスンだったということだけど。今も少し不安なのだ。それを補うために、ある人にも加勢を頼んだけど。

 そしてもう一つ、仮にこの注文がうまく果たせないとしても、それをありのままに受け止め、そのように市場側に伝え、謝るしかない。それを何か苦痛に感じるのは、おいらがそういう失敗をしてはいけないというような、あるいはそういう失敗をすることで市場の人の非難されるとか、
嫌な顔をされるとかいうことを、恐れていたり、苦痛に感じるような価値観に囚われているからだ。
 それとそういう失敗を犯しても、現実のおいらはありとあらゆる自然の、宇宙の、あるいは人々の営みによって支えられており、そうしたことに対する自覚が深ければ、そのような失敗から来る苦痛?はそう大きな影響をもたらすものにはならないだろうということだ。そういう自覚が足りないために、不安のようなものに、おいらの感じ方がのめり込む。結局それもおいらの主体的選択なのだ。それ以外の選択もできるのだ。

 心配しない生活とはそういう、日常生活の中でのおいらの主体的選択にかかわる事柄であり、それを抜きにした神秘的な何かに依存するようなところから生まれるものではない。

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