- 名前
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- 背が小さくて、よく子供って言われる、普通の女の子です(*^▽^*) 気軽に話しかけて...
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追憶の入院生活 2
2006年02月25日 15:17
私は中学生のとき、一番長く入院しました。
中学のセーラーはトータルすると1年くらいしか着ていないし、一年の時には学校へは一度も行けなかった。
手術は中学生の間だけで5回。発作も一番多く、薬の副作用もあったり、手術の後遺症が起きる心配に一番みまわれて、副作用ではなくストレスで髪が抜けてしまった。一番つらい時期だったと今でも思う。
中学生のとき、一番入院していたせいか(長い入院で丸一年)、担当の看護婦さんとはとても仲が良くなった。
担当の看護婦さんはとても優しくて、私が発作や急変を起こしたときは自分が非番の日でも必ず来てくれる人でした。
私はいつも、彼女のそばにいれば安心できたし、いつも当たり前のように治療してくれる看護婦さんやお医者さんに感謝の気持ちを忘れないでいられることができたと思う。
ある夏の日、私は手術後に始めて自分でお風呂に入れる日が来ました。自分で体や髪を洗えるのがうれしかった私は、担当の看護婦さんが一緒に付き添いで入るのを
「一人で入りたいから、外で待っていてもらってもいい?」
って言って、付き添いを断ってお風呂に入りました。
シャワーや浴槽を一人で使えるのは、そのとき約半年ぶりのことでした。私はとても興奮してしまって、勢いよくお風呂に飛び込んでしまいました。
最初のうちは気持ちよく浴槽に浸かってのんびりとしていたのですが、さっき言ったとおり、とても興奮していたために、心拍数が上がったのにも気づかずに温かい湯の中にい続けてしまいました。
湯から立ち上がった瞬間、心臓にとてつもない痛みが走りました。血の流れがよくなっていたのに急激に冷やされてからだが驚いて、発作を起こしてしまったのです。
私は浴槽の中にいるままで転んでしまい、痛みのあまり気を失っていました。
その後のことはよく覚えていません。
ただ、私はあの後、発作を起こしながら、広い浴槽の中で足を上にして溺れていたそうです。
担当の看護婦さんが浴槽をたたく音が中から聞こえてきたらしく、急いでいってみたら私が溺れていたので助けてくれたようでした。
しかし、私は死ぬ一歩手前だったようです。気づいたときにはいつもの病室のベットの上で、点滴と酸素マスクをつけられていて、とても息苦しかったのを覚えています。そのときは母の顔を見たのを覚えていますが、すぐにまた眠りについたようでした。
起きた時には私がお風呂で溺れた日から2日経っていました。酸素マスクははずれ、点滴だけでした。
朝の検温に来る担当の看護婦さんを待っていたら、その日は違う看護婦さんが来て検温をしてくれました。看護婦さんに担当の人はどうしたのか聞いてみると、
「昨日、急にやめちゃったの。」
と、いう返事が返ってきました。
私はショックでほかには何も聞けませんでした。
昼ごろ、母が見舞いに来て「担当の人、辞めちゃったみたい・・・」と私が言うと
「知ってるわよ」
と普通に言いました。
私が驚いているのを見て母は話してくれました。
私が溺れた日、急変したと聞いた母と父は急いで病院に駆けつけました。私がずぶ濡れの裸のまま診察をされているのを見た父は、当然怒ったそうです。私が安定した後に父は担当の看護婦とお医者さんに問い詰めたそうです。
事情を知った父は病院を訴えると言い出したようで、それを母は一生懸命止めたそうです。しかし、それでは父が納得がいかず、病院から賠償金をもらい、それに責任を感じた担当看護婦さんはその日のうちに病院に辞表を出して去っていったのだと・・・。
母が話し終わった後、私はショックと後悔で涙が止まりませんでした。
父と母は私のことを思ってしてくれた行動なので問い詰めることなんてできません。でも、一度起きたとき、無理にでも起きていたら担当の看護婦さんは辞めなくて済んだかもしれない。
一番の後悔はあの時、一人で入りたいなんていわなければ、こんなことは起きなかったのに・・・。
この後悔はきっと私の中にいつまでもあると思います。あのときに辞めていってしまった看護婦さんにあのときのことを今でも謝りたいと心から思っています。
もしも、偶然にもこの文章があの看護婦さんの目に触れられることがあるならば私は・・・
このデジログへのコメント
大概の人間関係は通過するものですが、後悔は懸念を残しますね。よい方向で忘れないことが大切かと思います
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