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おてもやん

2024年08月17日 09:15

おてもやん

清英の本日の書作品
おてもやん

『おてもやん』は、日本の民謡、および、歌詞に登場する女性の名前(「やん」は敬称の「さん」、「ちゃん」の意であるため、現代ではやや分かりにくいが、名前としては「おても」、「ても」となる)。熊本民謡の代表格とも言われる。熊本弁が強く出た陽気な歌詞が特徴。
参考サイト

https://kumamoto.guide/look/terakoya/142.html
ふるさと寺小屋

No.142 「おてもやん」

講師小山音楽事務所 主宰 小山 良 氏

明るくて芯の強い女性民謡でおなじみのおてもやん。熊本女性を象徴する人物として時代を超えて愛されつづけています。 その「おてもやん」のモデルとなった人物は?この歌にこめられた思いとは?「おてもやん」について取材、 調査をされ、『おてもやん』を出版された小山良氏におてもやんの魅力やその実像についてご紹介していただきました。

芸妓が舞っていた「おてもやん」
 全国に知られている民謡「おてもやん」は二拍子の軽快なリズムと、陽気な歌詞が印象的です。 しかし、私が取材を進める上で知り得たことですが、この「おてもやん」は戦前には花柳界のお座敷踊りとして芸妓さんが踊っていたこと、四拍子のスローテンポであったことがわかりました。作詞作曲、 振付けの永田稲(イネ)は慶応元年十二月二十日、熊本市米屋町三丁目の「糀屋」という味噌醤油製造業の家に 一人娘として生まれました。父は大八、母は辰(タツ)であり、永田家は肥後藩に多額のお金を献上し、名字・帯刀・家紋を持つことを許された名家でもありました。  イネは母タツの希望明治二年、四歳の時に芸道に入り、事や三味線太鼓、小唄等、邦楽全般、さらには舞踏歌舞伎も習いました。そこで芸の才能を発揮したイネは十八歳の時に師匠の芸名を継いで「亀甲屋嵐亀之助」を名乗り、 プロとしてデビューしたのです。昭和十三年十二月十六日、七十四歳で没しました。

イネとチモの出会い
 「おてもやん」が生まれるにあたって一人の女性が浮かび上がりました。富永登茂(チモ)です。 チモは安政二年十二月五日に飽田郡横手手永の北岡村(現・春日町一丁目)に小作農家の長女として生まれました。 五反(現・春日町五丁目)にイネ稽古場を構え、そこで二人は出会ったのだと思います。 ウマのあった二人が意気投合して仲良くなることに時間はかからなかったでしょう。しかし、 チモがモデルになったのは仲が良かったからだけではありません。  イネには萬吉という子どもがいました。そしてチモには孝という母親代わりになって育てた子どもがいました。 私は萬吉と孝は同一人物ではないかと思っています。なぜ、それが明らかになっていないかというと、 萬吉の父親が誰であるかということを秘密にされているからです。そこで、萬吉は県外へでていってしまったとして、 チモに預けられたのです。ただし、チモの子だとすると五十八歳の頃の子となるのでチモの妹のトジュの子として戸籍を作ったのでしょう。  チモは昭和十年一月十一日八十一歳で没しました。

「おてもやん」のモデル
 これまでの流れを総合すると、「おてもやん」のモデルはチモ、そしてイネ自身ではないでしょうか。イネは最後までこのモデルについては「公表できない」と言っていました。公表することは、 「孝」の出生のことが判ってしまうのではないか、という恐れを抱えることになるからです。  これを歌詞からみてみましょう。(先に私流の解釈であることをお断りします。)  一番は「おてもさん、最近結婚したそうですね」「一応結婚しましたが、村役、鳶役、肝煎りさんたちが 夫になる人が疱瘡のようだと言うので、結婚式はまだしていません。あの人たちが後はどうにか適当段取り をするでしょう」。顔も見てない相手との結婚は当時は特に珍しいものではなかったとはいえ、この陽気さ。 これはイネ男尊女卑のあの時代を痛烈に皮肉っていることを表した歌詞です。  二番には「三つの山を越えた所にいる人に惚れています。でも、なかなか女の口からそれはいえません。 近づいてきたお彼岸。その時には大勢の若い男女がお寺の夜の説教を聞きに集まる(夜聴聞詣り)ので その折りにあの人にあってゆっくり話すつもりです。私は、見かけだけの男には惚れません」。イネの心に慕う人がいると告白しているのではないでしょうか。  そして三番。明らかに前の二つのものと違います。まず方言が使われていないこと。ほとんど共通語です。 「人生は辛く苦しいことがたくさんあるけれども、それを怖れない気力を男は持ちなさい。もちろん女性も同様。 くよくよしても何もならないでしょう。努力はきっと実を結ぶもの。やり通そうとする気持ちと 負けじ魂を常にもっておれば後生気楽ですよ」。(…私もいろいろありましたがこのような考え方になれたのも 「おチモさん」と心を許しあう親友になってその生き様をみて会得できたのです…)。これは後年の大正時代に、人生経験を積んだ稲が自身の人生観を書き、追加したものではないでしょうか。  尚、一番と二番は明治三十三年頃(イネ三十三歳)作られたものと思われます。

「おてもやん」を調べてみて
 陽気な民謡「おてもやん」にはこのように壮絶なドラマが隠されていました。 私は今年の『くまもと歴史探訪シリーズ』で「おてもやん」をとりあげます。そのための取材研究の中で いろいろな方の協力を得て、ここまで辿り着くことができました。しかし、私が悔やんでならないのは、 この「おてもやん研究」にあと二十年早く着手していれば、チモやイネをよく知る人々に直接話が聞けたのではないか、 また、芸妓の舞う「おてもやん」を見ることができたのではないかということです。 これまでの調査では舞うことのできる人は見つかっていませんが、もしいらっしゃるならばどうかお知らせください。
小山音楽事務所096-354-0075)

〔 おてもやん 〕
一、
おてもやん あんたこの頃嫁入りしたではないかいな
嫁入りしたこつぁしたばってん ご亭どんがグジャッペだるけん
まぁだ盃はせんだった
村役 鳶役 肝煎りどん あん人たちのおらすけんで
あとはどうなっときゃあなろたい
川端町っつぁん きゃぁめぐろ
春日ぼうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃぁて花盛り花盛り
ピーチクパーチク雲雀の子 げんばく茄子のいがいがどん
二、
一つ山越え も一つ山越え あの山越えて
私しゃあんたに惚れとるばい 
惚れとるばってん言われんたい
追々彼岸も近まれば 若者衆も寄らすけん
くまんどんのよじょもん詣りにゆるゆる話しもきゃぁしゅぅたい
男振りには惚れんばな
煙草入れの銀金具が それがそもそも因縁たい
アカチャカ ベッチャカ チャカチャカ チャー
三、
一つ世の中 艱難辛苦の荒波越えて
男度胸でおいでなさい くよくよしたとてしょうがない
何時か目も出る花も咲く
移り気な浮き世のならいに 取り越し苦労はおやめなさい
悩みなんぞはこちゃ知らぬ
意地と張りの心が それが後生楽たい
アカチャカ ベッチャカ チャカチャカ チャー

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