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山片蟠桃(寛延元-文政四)

2015年10月23日 00:32

山片蟠桃(寛延元-文政四)

林子平の言うことを聞かなかったためワイド版8巻で大変な事になった仙台藩だが、あの後どうなってしまったのだろうか。結果から言えば何とか立ち直り、
幕末まで生き延びた。山片蟠桃という人が何とかしてくれたのだった。生まれは播州印南郡神爪村の商家本名長谷川芳秀、通称は七郎左衛門のち小右衛門。親戚の縁で大阪に行き、升屋=山片家の平右衛門に奉公して番頭出世し、
一門に加えてもらった。升屋といえば堂島先物取引市場の創設に加わった老舗中の老舗で、米問屋から大名相手の金貸しへと業務を発展させていたのである。主人の平右衛門さんは学問好きで、七郎左衛門を尼崎の「懐徳堂」へと連れて行った。そこは鴻池などが出資して作った町人の町人による町人のための学校で、
江戸の昌平坂とは一味違うリアリズムとしての朱子学をめざしていたのである。七郎左衛門は中井竹山・履軒兄弟に師事して「懐徳堂の孔明」と呼ばれるまでになり、
番頭さんだから「蟠桃」と号した。分かりやすいね。さらに中井の友人だった麻田剛立にも学んで西洋知識を吸収した。つまり高橋至時や間重富の兄弟分なのだ。そのころ取引のあった仙台藩は天明飢饉で滅亡寸前となり、ついに升屋に財政再建を丸投げしてきた。仙台借金を踏み倒されて潰れた札差は数知れないのだが、
こっちも経営難だった升屋はいちかばちか引き受けた。仙台といえば米どころ、というか米しか売るものがないので、百姓が年貢を納めた残りまで洗いざらい買い上げ
江戸に運ぶ事にした。その際、入港時の品質検査で抜き取るサンプル(サシ米)は手間賃にもらう約束をした。運よく天明飢饉終息後の数年は東北で豊作・西国で不作が続いた。
この機に乗じて蟠桃仙台米を最大限高く売りさばき巨利を得た。一俵あたり一合のサシ米でも六十二万石分つもれば山となり、升屋も大もうけである。さらに「米札」という一種の藩札を発行して藩内の支払いに当て、プールした現金上方に回して財テクで増やす。そんなこんなで享和三年までには借金を完済させたのだった。蟠桃の手腕は日本全国に知れ渡り、諸藩が争ってコンサルティングを依頼してきた。なんと商人嫌いの松平定信さえもが年五人扶持で相談役になってもらったのだった。彼は経済人として多忙の合間を縫い、神も仏もないビジネス人生から得た世界観を書物にまとめ始めた。後半生20年をかけて完成させたのが大著「夢の代」である。
地動説の紹介、無神論、応神以前の神話否定など、並みの儒者では言えないことだが、「怪力乱神を語らず」というのは実は極めて正統な孔子の教えなのだった。晩年は失明に苦しみ、再び悪化し始めた仙台藩財政(一時を凌げてしまったため根本的な構造改革がなされず戊辰の敗北に至る)に悩んだ。文政四年に七十四歳で没。「地獄なし極楽もなし我もなしただ有ものは人と万物」生前から海保青陵などは蟠桃を高く評価していたが、その本質が理解され「徳川期における真にオリジナルな思想ベスト3」に数えられたのは明治以降になる。
司馬遼太郎はこの人の大ファンであり、大阪府が主催する山片蟠桃賞の創設に関わった。※参考文献「日本思想大系・富永仲基・山片蟠桃」(1973.岩波書店)大阪府生活文化部文化課「山片蟠桃賞の軌跡1982‐1991」(1993.清文堂出版)戻る

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