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俺の24時間30

2008年05月16日 20:43

フーチというのは殷の時代までには存在したといわれる。神の意思を伺う技術の一つである。

現代。これを行っているところがあることは事実である。かつて日本の裏のドンがこれを目の当たりにして驚愕し、研究を始めたことがあった。

凡人は神秘を馬鹿にするが、以外に大物は世間の裏を知っているだけにこうした現象を簡単には否定しない。

かつて古代ギリシャの文化を牽引したのは神託だった。処女神がかりになって神の意志を告げた。それを神官たちが判読筆記した。
日本には武内スクネという神がかりエキスパートが史実に現れる。皇后神がかりを行い、スクネがこの神官役を引き受けた。日本ではサニワという神がかりの神が正しい神かどうかを判別するために審判者と字を当てる。

どこの世界でもあるこれに似たシステムであるがゆえに、人々の心を刺激して、驚かせた。

フーチの言葉は次々にそれを解読する担当者によって翻訳されPCに表示されていった。


人と神との共同体。それが世界なのだ。

だが宗教堕落して権力者の慰み者になったころから、神の否定が始まった。神は死んだどころか最初から居なかったという教育文明国の公教育を圧巻した。

政教の分離である。

これは人間の気高い部分と世俗的な部分を分離させた。

人は快楽人生の目的とするようになった。そのために金を求め、人間の気高さを捨てた。

人間は土と神の伊吹によってつくられている。つまり機械的に動く部分、糞尿中にダイアモンド以上の貴重なものを詰め込まれた。

それゆえ一人の人間の中には天国と地獄があり、天使と悪魔がすんでいるともいわれる。だが翻ってみればパンを求めるのも己を保存しようとする神の与えた本能の現われであり、人を救おうとする気持ちもまた快を求めようとする衝動の一形態と言えなくもない。

どちらが得か、どちらが損かを考えるというのも神の与えた判断力の賜物であり、その目的が利己的か、やや広い視野にたったものかの違いがあるにすぎない。

人の心は想像以上に神秘に満ち、深い。「衝動」というフィルターでみれば、善人も悪人も衝動に動かされている機械に過ぎない。しかしながらその違いはどこにあるのか。

より高貴な衝動、行動といったものが存在するのか。そういう基準が存在するのか。

現代人は「ない」と答える。現代人が唯一よりどころとして捕らえるのは常識であり、すべてを常識で判断しようとしている。しかし、常識は時代によって大きく変わる。情報によって大きくゆがむ。

共産圏の常識如何、資本主義国家の常識如何。だがマザーテレサの常識はどうか。

凡庸な人間には高貴を理解できない。だが高貴な感覚をもつ人間が権力をもっているとは限らない。民主主義の世の中では、凡庸にあって大衆を煽動できるもの、大衆の凡庸を理解しひきつける者の価値観が世界を支配する。

われわれは高貴な人間を師と仰ぎ尊敬しなければならない。マザーテレサ尊敬し、彼女の言葉に耳を傾けなければならない。ダライラマメッセージに心を向けなければならない。

宗教をを越えた高貴な人間に眼をむけ、気をてらっただけのものは単なる趣味にとどめて置くべきだ。

退屈だというのだろう。それは君の心が閉ざされていて、共鳴しないからだ。心が鈍くなっているからだ。

感じるが行動に移せないもの。髪の毛ほどの前進があれば成功だ。

環境が悪く堕ちて行く自分を感じるもの。祈れ。神に救いを求めることを恥じるな。

こんな環境、こんな生き方にも関わらず、祈れ。毎日祈れ。神の意志のままに・・と。

たとえ自分が肥溜めの中にあって、穢れていても、神に心を向けて祈れ。

たとえ借金の泥まみれの中にあって、身売りをしなければ生きてゆけないとしても、祈れ。

ひたすらに祈れ。道を開くために祈れ。

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