- 名前
- ゴルキチ
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- 年齢
- 61歳
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- 群馬
- 自己紹介
- ソロモン諸島をめぐる日米消耗戦を小説にしています。タイトルは「大東亜戦争を戦った若者...
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昭和16年の12月8日の開戦から12月10日まで日本軍はいくつもの奇跡を起こした
2025年12月10日 22:00
昭和16年の12月8日の開戦からたった3日で日本軍はいくつもの奇跡を起こした。
まず12月10日にはイギリスの誇る最新鋭の不沈艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦のレパルスを、
陸攻の雷撃と爆撃によって撃沈しているのである。
当時、戦闘中の戦艦は航空機の攻撃では沈める事は出来ないとされていたのである。
それも日本軍の航空機の性能は、米英の航空機より格段に落ちるとも言われていたのに、その日本の航空機によって最新鋭の戦艦が沈没してしまったと言う事になる。
このイギリスの最新鋭の戦艦が、日本軍の航空機によって沈没したのは、世界に衝撃を与えたのは言うまでもない。
これによってマレー半島からベトナム、フィリピンに渡る周辺海域の制海圏と制空権を日本軍が握った事になる。
こうなるとマレー半島のコタバルへ上陸した部隊への物資の輸送は、安全に行う事が可能となった。
これが翌年の2月15日のシンガポール陥落に繋がる。この攻撃もとてつもなく早いのである。
コタバル上陸からマレー半島のいくつもの要塞を突破して、2月15日には難攻不落のシンガポール要塞を攻略してしまったのである。
真珠湾攻撃とは、6000Kmを超える距離を6隻の空母が、350機の艦載機を乗せて10日間航行して真珠湾に到達して、一斉攻撃するのであるが、これほどの大掛かりな機動部隊の運用は、世界初の快挙である。
だがこの時にアメリカ軍の空母2隻は、任務中でエンタープライズはウエーク島から帰還途中、レキシントンはミッドウェー島へ航空機を輸送中だったので、2隻の空母は助かった。
もし仮に空母が真珠湾に停泊していたとすると、その後のミッドウェー海戦も起こらず、
日本軍は太平洋を好き勝手に攻撃して回った事は疑いようもない。何せ機動部隊がアメリカに無いのであるから、この戦力差は全く埋まらないのである。
そうなるとどういう事が起こるかと言えば、真珠湾基地占領、西海岸爆撃、艦砲射撃、西海岸上陸と言った事も十分あり得たのである。
日本が到底アメリカ軍には勝てないなどと言う事はないのである。
未だある。台湾の台南基地からアメリカの空軍基地まで900Kmも離れた所に、
航空母艦に頼らず、航空機のみで攻撃して帰ってくるなど到底考えられない事をやってのけたのである。
アメリカは、このフィリピン基地攻撃は、空母の運用で攻撃して来たと今だに信じている。
まあゼロ戦の航続距離が2500Kmだからこその快挙であるのだが、当時戦闘機が2500Kmも飛べるなど
世界は全く信じていなかった。
そして強力なアメリカ空軍基地をたった3日間で制圧している事も、驚異的な出来事である。
未だある。翌日12月11日には、マレー半島コタバルに上陸した陸軍部隊が、ジットラ・ラインという強固な要塞をたった1日で突破しているのである。
イギリス軍は少なくとも(突破されるにしても)1か月は掛かると踏んでいたのだが、ここでも日本軍は奇跡的戦いをしている。
こういう奇跡的な事をやって行くと、日本軍に怖いのは慢心である。
この慢心がミッドウェー海戦で出て来てしまうのである。
確かに戦力から言えば、圧倒的に日本軍機動部隊が優位で、負けるなど考えもしなかったのは
確かであろう。
その負けた原因は攻撃こそ最大の防御と言う事を怠ったためである。
この大敗は、戦術ミスも甚だしいのである。南雲中将の責任は非常に重い。
だが当時日本軍は世界最強であった事は間違いがない。









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