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趣味は読書、こんなところに書くべきではない

2020年10月24日 05:15

その日は金曜日で、夜、「男女7人秋物語」を見た。
もう、静岡の伯母は家に来ていたと思う。

朝、引越しアルバイトで、厚木から大宮までの仕事に行った。
多分、2トン車2台で出かけたのだと思う。
相模大橋を渡る時、欄干にカラスが止まっていて、ドライバーミカミさんが、「ああ、カラス」などと言ったのを覚えている。
1987年当時、まだ携帯電話は普及していなかった。
引越し先の新築に着いたのは、距離があったので、午後も遅い時間だったと思う。
着いてすぐに、お客さんに呼ばれた。
会社から電話が入っていると言う。
詳細は覚えていないが、母が危篤であると病院から連絡があったという電話。
ほとんど手持ちのお金もなく、仕事に行っていたので、ミカミさんが三千円貸してくれて、作業もせずに、不案内な大宮から神奈川秦野までとんぼ返りした。
どのような乗り継ぎで帰ったのか、もう覚えていない。
ただ、新宿から、作業服のまま乗った小田急線の中で、ドアの脇に立って、既に亡くなっていた父親や普段拝みもしない神に、母を助けて下さいと自分勝手な願いを、心の中で唱え続けていた。
家に着いたのは、もう夕方だった。
服を着替えて、病院に行った。
バスだったか、徒歩だったか、タクシーだったか覚えていない。
医師に病状を説明されたのだが、それも詳しくは覚えていない。
意識は無くて、とりあえず、小康状態。
今すぐどうということはないので、家に帰って良いと言われた。
今から思えば、素直に帰るべきでは無かった。
意識など無くても、面会時間のギリギリまで、付き添っていれば良かった。
順序は覚えていないが、静岡の父方の伯父、九州の母方の伯父、それから何人もの親戚に電話をしたのだと思う。
僕の父は七人兄弟の次男だったが、静岡義理の伯母が様子を見に、一番に家に来てくれた。
テレビを見ていた時には、もう伯母は家にいたと思う。
それから、床に就いて、少ししてから電話が鳴り、母の容態の急変を告げられた。
すぐにタクシーを呼び、伯母と共に病院へ。
そして、母は亡くなった。
10月24日。満59歳。母の誕生日だった。
病院から、公衆電話で、親戚に亡くなったことを次々に連絡した。
ずっと泣いていたのだと思う。
僕は25歳だった。

もう、33年も前のことである。
それ以来、僕に新しい家族はいない。

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