- 名前
- ぱすかる
- 性別
- ♂
- 年齢
- 73歳
- 住所
- 福島
- 自己紹介
- 中身は40代。 気が弱く臆病だが、ココロは獰猛。
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うっ、泣ける
2016年01月15日 07:05
私の弟は28歳で亡くなりました。
脳疾患持ちで、合併症により15歳まで生きられない、20歳まで生きられれば幸いと、
医者からは言われていました。
よくぞ28歳まで生きたものです。
弟が小学5年生のとき、無理を言って普通学級に編入させてもらったときのこと。
弟にケイタ君という友だちができました。
家庭に事情のあるケイタ君は、5年生ですでにゲームセンターに入りびたり、
タバコを吸うような早熟な不良でした。
そんなケイタ君、なぜか弟の面倒だけはとてもよく見てくれました。
子どもは残酷なもの。
クラスの中に呼吸器を引きずったクラッチ付きの子に、決して寛容ではありません。
弟は男の子からも女の子からも、陰湿なことをされました。
しかし、それはケイタ君がそばにいない時だけでした。
「ケイタがね、『いじめられたらすぐに俺に言え、お前は俺の舎弟だからな』
だって。でも舎弟ってなんだろね。子分のことかな?」
弟はいつも家に帰ると、母と私にそう言ってました。
修学旅行に行く途中で弟がそそうをしてしまったとき、一斉にはやしたてた同級生を尻目に、
ケイタ君はシモの世話さえしてくれたのです。
6年生の男の子がです。
卒業した弟が養護学校中等部に入ると、ケイタ君は一層気合の入った不良になってました。
だけど、養護学校の催すバザーに来てくれたり、
生徒たちによるフォークダンスへの参加さえもしてくれました。
なぜケイタ君のような優しい子が、不良と呼ばれるのだろうと思いもしました。
その後のケイタ君、何をやったのか、16歳のとき警察に連れて行かれ、噂では少年院に入院したとのこと。
それから東京に行ってしまったとも聞きました。
とにかく、ケイタ君とはそれっきりになってしまったのです。
弟が死んだとき、28歳の短い生涯を象徴するように、身の回りの持ち物は極めて質素なものでした。
そんな所持品の中に、きっと弟が大切にしてたであろう木箱がありました。
弟が死んだ時、私も両親も、悲しみよりも、
「やっと楽になれたね、よく28まで生きたね」
と落ち着いた気持でその事実を受け容れました。
しかし、弟の身の回りの持ち物、その中の木箱を開けたときに、
母も私も胸しめつけられる思いに陥り、涙が止まらなくなったのです。
木箱の中には、弟の宝物がいくつか入っていました。
一枚の写真と数通の手紙は、薄紙で包まれとりわけ大切そうにしまいこんでありました。
写真は、弟の養護学校時代のものです。
弟の隣に寄り添い、腕を組み、カメラマンにガンを飛ばす金髪少年が写っています。
そうなんだ、ケイタ君、
私たちが知らないときにも、弟のいる養護学校に訪ねてくれてたんだ。
手紙は、いずれも便箋1枚に少ない字数のものばかりです。
「おまえはいつでも俺の舎弟だ」
とか
「早く元気になれ、ドライブに連れってやる」
とか
「寂しくなったらいつでも言え、すぐ俺が来る」
とか、
どれもこれもがつたないけど、弟を強く励ます一行二行です。
母と私は、それらを前にしてたたずみ、
あふれる涙をこらえることができなくなったのでした。
ケイタ君、
今どこにいるのですか?
幸せにしていますか?
私は、今、すごく君に会いたい。
会ってすぐにその手を握り締めたい。
このデジログへのコメント
会わない方が、よいと思う
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