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銀髪の職人

2008年09月04日 00:15

銀髪の職人

ロンドンで最初のパンクレコードと言われているのが
ザ・ダムドの「ニートニートニート」です。
それをプロデュースしたのがニック・ロウです。

しかし彼のキャリアの原点はザ・バンドやCSN&Yのような
アーシーな味わいのある「ブリンズレー・シュワーツ」
というバンドでした。このバンドは70年頃にデビュー
果たしますが、英国EMIがかなりの宣伝費をかけて
いきなりマジソン公演等も目論みますが、見事におおこけしてしまい
結局それが仇となる形で次第にフェイドアウトしてしまいます。
バンドを解散し、70年代の後半頃から、ジェイク・リヴィエラ
と共にロンドンで「スティッフ・レコード」の設立に携わります。
本人は当初はプロデュース業を中心に考えていましたが、
それではもったいないと回りにもレコーディングを進められる
ような形で、同時進行でキャリアを進めて行きます。

そのスティッフ最初のヒットが上記のダムドシングルでした。
その後もエルヴィス・コステロミッキージャップ等の
プロデュースを引き受けます。
当時バンドがなかったコステロを「クローヴァー」(現ヒューイ・
ルイス&ザ・ニュース)をバックレコーディングを勧めたのも
ニック・ロウと言われています。

彼自身の音楽は正に至宝と呼ぶに相応しい物でした。
アメリカのカントリーベースにしながらも英国の香りが漂う
とても上品で素朴で奥の深いそれらの作品はしか
当時の英国のパンク真っ只中の中では埋もれていく運命
ありました。「恋する二人」はヒットしますが、後は
全くダメでしたね。

それでも数は少ないながらもその良質な音楽を愛する人は
いて、コステロもその1人でした。彼にとって、ロウは
ブリンズレー時代からのアイドルです。

80年にロウの名曲「ピース・ラヴ・アンド・アンダースタンディング」を彼のプロデュースの元パンキッシュにアレンジし、
レコーディングしています。

しかしその後もヒットには恵まれず、バンドを解散し、
ソロの道を歩みます。

日本に最初に来たのは86年だったと思います。
そこで一つの伝説が生まれます。今は「フジ・ロック・フェスティバル」で有名になったスマッシュ・CORPが招聘したのですが、
何故か延期となります。ただ、具体的な日時は発表されずに
無期延期。事実上の中止と同じ事でした。
ところがこの延期でチケットの払い戻しをした人はほとんど
いなかったそうで、スマッシュ社長は「これは実現させないと」
と決意したそうです。
最初の延期から1年以上経っていたと思いますが、
無事に来日を果たす事となります。
会場は二転三転した結果、聞いたこともない「太田区民会館」(笑)
一回のみ。
もちろん行きました。異常にちっぽけなステージアコギ
抱えたニック・ロウが登場すると、最初の一音で皆を釘付けに
してしまいました。
完璧な曲、演奏、声。他には何も必要ありませんでした。
そして中盤。まさかまさかのコステロ登場!
皆殆んど悲鳴に近い歓声を上げていました。
1週間あとに、彼もライヴが決まってはいましたが、ニックのために
わざわざ前倒しして、来てくれたのです。「太田区民会館」に(笑)

「ベイビー・イッツ・ユー」「ピース・ラヴ~」等4曲を披露
してくれました。どうもファンに恵まれなかった彼はアンコールも
非常に違和感があったようでステージの端から「僕で良いの?
エルヴィスじゃないの?」という仕草をしていたのが
とても印象に残っています。素晴らしいショウでした。

その時の二人とダブる映像を見つけましたのでご覧ください。
もう1曲は最近のステージからです。

https://jp.youtube.com/watch?v=LeFlPxMTP24

https://jp.youtube.com/watch?v=-nSD9TXu7Mk

このデジログへのコメント

  • 一遍 2008年09月04日 22:58

    そうか くちぶえ。。失礼しました(笑)入り口に予定表があって
    ニック・ロウ公演の前後が地元の自治会とかそんなのばっかりでした(笑)ニック・ロウはお奨めです。聞いたことあるかな?

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