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「武士の世」を目指した源頼朝の意識改革と、違反した御家人への悪口雑言を一挙公開

2019年02月09日 14:53

「武士の世」を目指した源頼朝の意識改革と、違反した御家人への悪口雑言を一挙公開

他人の誉め言葉には何の値打ちもない、自分を批判しくれる人にこそ耳を傾け、

それを自分磨きの糧とすることこそ、自分にとって好ましいことと思われます。

他人の批判が的外れであれば、罵声は自分の耳を右から左へ通り越すでしょう。

虚心坦懐とも申します。素直に批判を甘受することができれば、自分の薬です。

「良薬は口に苦し」は、耳を塞がず、目を見開いて、現実を知るべしという事。

 野 村 克 也 ( 元 プ ロ 野 球 監 督)  
 「 一流 は貶(け)なす、 二流 は褒(ほ)める、 三流 は無視する 」   


   叱  ら  れ  て  る  内  が  華    

 
  「武 士 の 世」 を目指した 源 頼 朝 の 意 識 改 革 と、 
  違 反 し た 御 家 人 へ の 悪 口 雑 言 を 一挙公開

         2019年2月8日 11:47Japaaan より


源氏の嫡男として生を享け、幾多の苦難を乗り越えて没落していた源氏を再興、

鎌倉幕府を開いて「武士の世」を創り出した 源 頼 朝(みなもと の よりとも)公。

源頼朝ストレス人生…妻はラスボス、弟は自分より優秀!あぁマジで病みそう(泣)

それまで「公 家 の 地 下 人(じげにん。召使い)」であった武士を、

その軛(くびき)から解き放ったのですが、それには

武 士(御 家 人)た ち の 意 識 改 革 が 必 要 で し た。

しかし、いつの世も改革には困難がつきもの。

永らく代々にわたって公家たちに飼い馴らされてきた武士たちの「地下人根性」はなかなか抜けず、

頼 朝 公 は 朝廷公家との関係性で、何度も 頭 を 抱 え る ことになります。


 (^_-) 時は平安・元暦二1185年。

源 九 郎 義 経(みなもと の くろうよしつね)を総大将とする源氏方は

壇ノ浦の合戦(同年3月24日)で平家一門を滅ぼしましたが、

その 手 柄 に 驕 っ て 朝廷より 勝 手 に 官 位 を 受 け、

これが鎌倉にいる 頼 朝 公 の 逆 鱗 に 触 れ ま し た。


頼朝公はかねてより

「朝 廷 か ら 官 位 や 褒 美 を 受 け る 時 は、

 必 ず 頼 朝 公 が 朝 廷 に 推 薦 し て か ら 受 け る ように」と

 ルールを定め、朝 廷 の 権 威 を 自 ら に 集 中 さ せ る こ と で 

 御 家 人 ら の 統 率 を 図 ろ う と し て い た の で す。

 ……にも関わらず、

 大 手 柄 に 浮 か れ 狂 っ た 坂東武者が 官 位 に 釣 ら れ、
 
 公 家 ど も に 餌 づ け さ れ て い る 様 子 は、

 鎌 倉 に 「武 家 の 都」を、新たな「武 士 の 世」を築こうとする 

 頼 朝 公 の 怒 り と 呆 れ を 煽 り 立 て る に、

 十 分 す ぎ る 醜 態 で し た。

頼朝公の怒りが、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』元暦二年四月十五日条に記されています。

【 意 訳 】

「……お前の中で、勝手に官位を受けたバカ者がいると聞くが、

 朝廷から直接官位を受けた以上、

 お前らはもう朝臣(あそん。朝廷の臣=家来)なのだから、

 せいぜい京都公家どもに仕えるこったのぅ。

 ……もし東国へ、具体的には墨俣(現:岐阜県大垣市)より東に来てみろ、

 職務怠慢としてお前らの所領は没収、その命はないものと思え

【 原 文 】
「下す、東國侍の内、任官の輩の内、本國に下向することを停止(ちょうじ)せしめ、おのおの在京して陣直公役を勤仕(きんじ)すべき事。
(中略)もし違ひて墨俣以東に下向せしめば、かつはおのおの本領を改め召し、かつは斬罪に申し行はしむべきの状、件のごとし」


頼朝公の怒りはこれに留まらず、

自分の推薦もなく朝廷より 官 位 を 受 け た 御 家 人 2 4 名 を名指しして、

痛 烈 な 面 罵 と 皮 肉 を 食 ら わ せ た の で し た。


 実 際、こ の 時 に 罵 倒 さ れ た 御 家 人 た ち は、

後 で 何 だ か ん だ 言 っ て 赦 さ れ て い ま す。


( ̄ー ̄)   言うも言ったり、罵倒あれこれ


 兵 衛 尉 義 廉(ひょうえのじょう よしかど)

【 意 訳 】 

「お前は昔

 『頼朝なんて将来性がない。仕えるなら木曾義仲だよね

 とか何とか言って、親子で寝返ろうとしていたこと、

 俺は忘れてないからな


 佐 藤 兵 衛 尉 忠 信(さとう ひょうえのじょう ただのぶ)

【 意 訳 】 

「(お前の元主君である)藤原秀衡の家来が兵衛尉に任じられたことは
 
 これまでなかったが、奥州田舎武士が身の程をわきまえやがれ、

 このイタチ野郎!」


 師 岡 兵 衛 尉 重 經(もろおか ひょうえのじょう しげつね)

【 意 訳 】

「お前がかつて、平家方に味方したことは

 まぁ赦してやろうと思っていたが、

 このザマじゃあ奪った旧領は返してやれん。

 残念だったなぁ(ニヤニヤ)」


 渋 谷 馬 允 重 助(しぶや うまのじょう しげすけ)

【 意 訳 】 

「お前の父(重国)は地元で俺に従ったというのに、

 お前はあちこちうろついて平家についたと思えば木曽義仲に味方してみたり、

 義経が上洛してくればまた寝返る無節操

 まぁそれでも数々の武勲に免じて召し抱えてやろうと思ったが、

 つまらぬ官位を貰ったことで首を斬られるのは、どれだけ無念だろうな?

 まぁ鍛冶屋に頼んで、首に分厚い鉄板でも巻きつけてもらうこったな!」


 後 藤 兵 衛 尉 基 清(ごとう ひょうえのじょう もときよ)

【 意 訳 】 

ネズミみたいな目ェしやがって、

 戦場でもただキョロキョロしていただけだろうに、

 何の奇遇で官位にあずかったンだ?」
 

 梶 原 刑 部 丞 友 景(かじわら ぎょうぶのじょう ともかげ)

【 意 訳 】

「声はしゃがれ、頭髪は薄く、後退してまるで爺ィだ。

 刑部なんてガラじゃねぇだろ!」


 梶 原 兵 衛 尉 景 貞(かじわら ひょうえのじょう かげさだ)

【 意 訳 】

合戦の時に武勲を立てたと聞いたから目をかけてやろうと思ったのに、
 
 勝手な真似でフイにしちまったなぁ(ニヤニヤ)」


 梶 原 兵 衛 尉 景 高(かじわら ひょうえのじょう かげたか)

「顔色も悪いし、元々バカだと思っていたが、

 やっぱりバカだったか。バカめ」


 中 村 馬 允 時 經(なかむら うまのじょう ときつね)

【 意 訳 】

「あの大ボラ野郎、身の程知らずに官位なんか欲しがるから、

 本領である揖斐庄を失うとは、哀れなヤツだ。

 馬允と言うが、あんなヤツに育てられる馬が気の毒だ」


 豊 田 兵 衛 尉 義 幹(とよだ ひょうえのじょう よしもと)

【 意 訳 】

「青っ白いマヌケ面しやがって、あれで兵衛尉だとよ。

 そう言やぁヤツの親爺も俺が挙兵した時、

 さんざん呼んだのに来なかったくせして、

 後から勝ち馬に乗って来たんだったな。バーローめ」


 平 山 右 衛 門 尉 季 重(ひらやま うえもんのじょう すえしげ)

【 意 訳 】

「あのふわふわしたマヌケ面が気に喰わねぇ。この野郎


 宮 内 丞 舒 國(くないしょう のぶくに)

【 意 訳 】

「お前、以前に大井川を渡る時、声とかガクブル震えてたくせに、

 随分と偉くなったモンだな、あぁ?」


 山 内 刑 部 丞 經 俊(やまのうち ぎょうぶのじょう つねとし)

【 意 訳 】

「ロクに仕事もしないのに官位ばかり欲しがって、

 猫に小判だ。この役立たずめ!」



 キツい罵声も 「愛 の 鞭」、 頼 朝 公 の 人 間 力

  ……とまぁ、こんな調子で言うも言ったり 2 4 名、

  過 去 の 行 状 から 親 の 態 度、

  挙句は 容 姿 に至るまで散々な け な し っ ぷ り。

 (※厳密には、名前の下が空欄だったり、右に「同じ」とだけ書かれている者もおり、
  個々に対する頼朝公の怒り度合いに温度差を感じます)

  それにしても、よくまぁここまで 御 家 人 ひ と り 一 人 を見て、

  覚えているものだと呆れるやら感心するやら。

  けなす時は感情むき出しでけなすけれど、平素から 

  御 家 人 た ち に 目 を 向 け て、心を寄せて来たからこその「愛の鞭」。

  そんなところも、御家人たちから慕われた頼朝公の人間的魅力なのかも知れません。

  共に「武士の世」が描けるか?

  ……しかし、空恐ろしいのは、これだけ御家人みんなに罵声を浴びせていながら、
 
  勝手に官位を受けた筆頭格である筈の 義 経 に 対 す る 批 判 は 元より、

  そ の 名 前 す ら 書 い て い な い 事 で す。

  これを「さすがの頼朝公も、弟には若干なりとも遠慮があった」と見るか、

  あるいは「もはや罵声すらかけない≒もう見棄てるつもりでいた」と解釈するかは

  微妙なところです(たぶん後者でしょう)。

  少なくとも、他の 御 家 人 た ち に 対 す る 罵 声 は

  「お 前 ら し っ か り し ろ! 目 を 覚 ま せ !」

  という 叱 咤 激 励 でもあり、

  よく、「叱 ら れ て い る 内 が 華」と言いますが、

  まさしくそれを感じます。


 実 際、こ の 時 に 罵 倒 さ れ た 御 家 人 た ち は、

後 で 何 だ か ん だ 言 っ て 赦 さ れ て い ま す。
  
  義経は、頼朝公の思い描く「武士の世」が理解できず、あくまでも、

  武士は「朝廷公家に仕えるべき存在(地下人)」と考え、

  そうした価値観の相違が兄弟の訣別を招き、悲劇を生み出したのかも知れません。


※参考文献:『全譯吾妻鏡 第一巻』新人物往来社、昭和54年8月20日 第四刷


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このウラログへのコメント

  • まんかつ 2019年02月10日 01:32

    > タミンさん

    旧日本軍が戦争に負けたのは、地元住民に嫌われたことが最大の敗因。ベトナム戦争の米軍しかり。平家の敗因もまさに「驕り」。弱いがゆえに嫉妬もし、他人への配慮にも長けたと、頼朝公を敬愛

  • archer 2019年02月22日 22:52

    鎌倉政権は二重権力の一方の政権でもう一方の政権は京都の朝廷だった。二重権力は朝廷側の律令制に手を触れないことで成り立った。従ってこのタブーを侵犯した義経は政権の根幹を揺るがす逆賊ということでしょう。

  • まんかつ 2019年02月23日 00:45

    > archerさん

    はい、権力二重構造。頼朝は豪族を味方につけ、豪族の北条氏に滅ぼされる。平家は貴族寄り。奥州藤原氏(豪族)&義経は皇室寄り足利氏が踏襲。幕府三遷は鎌倉、室町、江戸(豪族政権)。

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