- 名前
- ベソ
- 性別
- ♂
- 年齢
- 64歳
- 住所
- 海外
- 自己紹介
- 我ハ墓守也。
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生きた証
2015年08月09日 00:34
皆様、お久しぶりでございます。多忙を理由にしばらくROMしておりました。
当時は国外で過酷な訓練中で、心理的にも余裕がなかったのでそうするしかなかった次第でございます。
その後、訓練を無事に終え、一味違う男に成長して帰国致しました。
応援くださった皆さんには心よりお礼申し上げます。
で、帰国して一月。
訓練の結果、会社での業務はかなり変わり、慣れるのに大変、といった感じです。
そして。
この時期になり、お盆休みをもらい、帰省しています。
家族は週明けに合流させる段取りで、この週末はわし一人で両親と過ごしています。
わしの両親、お陰様で元気です。しかし、二人で暮らしているので、何かあった時の対処が難しい。
本来であればわしが同居し、その対策となるのが本筋であるのは当然。
しかし。わしの仕事は何処ででも見つかるものではなく、両親が住む街で探しましたが見つかりませんでした。
勿論、今でもわしは悩んでいます。あれだけ手を掛けて育ててもらいながら、老後の面倒を見ないつもり? という自問が常にあります。
同時に、仕事を放棄してまで両親のそばに暮らすことを果たしてわしの両親は望むか? ということも考えます。
その答えは恐らく、Noです。
言葉でもそう言われますし、自分が今の両親の年齢になった時に果たして、子供に面倒を見て欲しいと思うか? という問いに対する答えがNoであるからです。
こんな考えを非難する方もおられると思います。当然です。自分でもそんな気持ちですから。
そして。
そんな両親が今後を過ごす方法を考えるにあたり、有力な方法として検討しているのがケアホームです。
早い話、介護やら限定的な医療サービスの付いた老人ホームです。
こうした施設なら体調が悪い時には対処してもらえるし、客観的に見て家族を呼ぶ必要がある時には連絡をしてもらえます。
そんな訳で。
昨年位から、帰省の度に候補のケアホームを探し、両親と共に見学しています。
限られた件数ですが、幾つかの施設を見学させてもらい、その雰囲気やわしの両親に向いた施設のイメージが湧くようになりました。
わしには介護も世話の経験もないので、こうした施設に足を踏み入れるのはまったく初めての経験です。
その全く未知の世界で、既に入居している方々を観察する機会があり、感じることがありました。
今まで見学した物件は、居室が個室で、その他に共有スペースがあり、そこに大浴場やら集会場やらがあり、また防音のされたAVルームにはカラオケの機械が用意され…という成り立ちです。食事は施設内のレストランで食べたい時に食べ、代金は翌月に精算、というシステム。その献立は勿論、栄養士さんが入居者のニーズを考え決定し、プロの調理師が料理し…という仕掛け。入居して肌が合えば、恐らく快適に日々を過ごせる、と見込める施設です。
そんな施設を幾つか見学し、感じたこと。
入居者の方にとっては、こうした施設は基本的に「死に場所」です。
入居者の人生最後の数年を快適に過ごす為に設計され、運営されています。
つまり、入居はしても退去はない。去るのは、その方が人生から去られた時のみ。
(そんな施設に自らの親を送り込むのは姥捨山に捨てることではないのか? と自問する訳ですが…)
そんな環境で日々を送ることが、心理的にどうなのか。
わしには本当に、想像するしかありません。
それでも、施設内を歩いて見せてもらうだけでも、垣間見えることはあります。
わしが感じたのは、こんな環境でも、人は自分が生きた証を残さずにはおれない、ということです。
自分の人生最後の居室となる施設の個室の玄関周りを、個性的に飾り付け、自分らしさを表現したい。
自分の気に入るようにちょっとした小物を置き、個性を主張せずにおれない。
そんな例を幾つも見て、人は誰も、自分が生きた証を残さずにはおれないんやな…と感じました。
わしは幸い、子宝に恵まれ、自分が此の世を去る時には子供に想いを託すことが出来ます。
自分が生きた証は既にそこにある。
しかし…
望んでも子供を授からないご夫婦、いらっしゃいます。
辛く費用がかかる不妊治療を長期間続け、尚子宝に恵まれず…という話も聞きます。
中には、最初から「産まない選択」をして自分の遺伝子を残さない決断を主体的にして、最後の時を迎える覚悟をなさったご夫婦もあるでしょう。
そうしたご夫婦がこのような施設に入っても、当然ながら子供が遊びに来てくれることはありません。
或いは、子宝に恵まれても、事情があり子供と疎遠になり顔を合わせることもない、というケースもあるでしょう。
その状況で、人は何を考えるのか。
どの施設でも言われたことは、入居者の割合は圧倒的に女性が多い、ということです。
その多くがご主人に先立たれた方、とのことです。
この中には、望んでも子宝に恵まれなかった方もおられるでしょう。
そしてご主人に先立たれ、どんな気持ちで日々を送っておられるのか。
まったくの大きなお世話ですが、色々想像しました。
こうした施設は普及する前は、大家族制が生きており、老後の面倒は家族が見ることがほぼ決まっていた訳です。
その前提が崩れ、老後の保証を自らが考えることが当然になった時点でこうした葛藤が生じ始めたように思います。
生きた証。
人はそれを何に求めるのでしょう?
自分という人間が一時でも存在し、生きてこんなことをして死んで行った、ということを誰かに伝えたい、覚えていて欲しい、忘れて欲しくない。
そんな想いを誰もが持つものでしょう。
そう。生きた証。
自らの遺伝子を継ぐ者がいない、或いはいたとしても疎遠になり接触がなくなる。
そんな状況で、人生の黄昏を迎えた時に、人は何をせずにおれないものなのでしょうか。
そして、自分は自らの両親に、そんな不安を感じずに日々を過ごす手伝いが出来ているか。
疑問は次から次へと湧いて来ます。
ケアホームは果たして、現代の姥捨山か。
「大和物語」の中の姥捨山のエピソードでは、村の風習として姥捨を行わねばならず、婆様を捨てに行った青年はその翌日、良心の呵責に耐えられず婆様を連れ戻しに山に戻ります。
同じことが自分に出来ないのは最初から分かっています。
自分は、両親の生きた証となれるのか。
重い問いです。
毎日暑うございます。
皆様、くれぐれもご自愛を。
このウラログへのコメント
美奈はホームでナースしてます。
たくさんの方を見ていて、自分もいろいろ考えさせられます。
> ☆mina☆さん
そうでしたか… 入居者の人生の最終幕の演出家ですね。大変なお仕事やと思います。どうか過度にストレスを溜めず、日々の業務にお励みを。入居者はきっと感謝してはります。
「自分が生きた証を求めたければ、その道はゴーストの数だけあんのさ」 by バトー
> シーナ.さん
人が生きた証は所詮、人の中に残すしかない、というのが皮肉というか、因果なところやね。
わしは何も立派なことはありません
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