- 名前
- ベソ
- 性別
- ♂
- 年齢
- 64歳
- 住所
- 海外
- 自己紹介
- 我ハ墓守也。
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不倫旅行 ~終わらない旅~
2009年04月16日 16:42
二人の旅から戻り、再び離れ離れになった彼女と私。数日後の晩、彼女から「胸が痛い」とメールが来ました。これが深刻な痛みだというので主治医に連絡しろ、と私は指示。その晩はそれきりメールはありませんでした。
翌朝、彼女からメール。「昨晩はあのまま緊急入院して・・・」の言葉に凍り付く私。
そして、その後の言葉は、無限大の衝撃を私に与えました。
「来年の桜は一緒に見れないみたいです。」
足元の地面が消滅したような感覚。まさか・・・
緊急入院した病院で、彼女は、主治医から余命宣告されました。
信じられない現実にまた打ちのめされる私。
どうして?
どうして??
どうして彼女が???
答えのない問い。
「旅行、ワガママ言ってベソさんと行けて良かったです。
もう次はないかな。」
嘘だろ・・・ 否定したい自分。
「現実が自分自身受け止められなくて、どうしたらいいか・・・」
これが彼女と私の、新しい旅の始まりだったと思います。返す言葉が見つからない私。彼女も明らかに投げやりになっており、電話すると私と会っても意味がない、もう先は短いんだし・・・と言われました。賢明に励ます私。しかし彼女の心には響かない。当然です。私と週末を過ごし、私のために、また治療に立ち向かう決心をした矢先に彼女に振り降された鉄槌。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。もどかしく、またどうして良いか分からない状態でログインしたデジのチャットで、私はあるフレンドさんから大変に耳寄りな情報を入手します。彼女も実は子宮癌で末期を宣告され、余命幾許と言われながらもある治療法を実行することで癌を撃退、10年後の今でもバリバリに働いている、というスーパーウーマンである事が判明。
私はこのフレンドさんに事情を説明し、その治療法のことを詳しく教えてもらいました。大変に親切な人で、親身になって相談に乗ってくれ、惜しげもなく情報をくれました。余りの有りがたさに泣かんばかりの私をしっかりしなさい、と激励してくれるフレンドさん。
そう。私がしっかりしなければ。
私はこの有力情報を早速彼女に提供しますが、事は簡単に運びません。新たな治療を始める事に抵抗がある、と言います。皆をまた失望させるのが怖い、と。この治療法を執拗に薦める私に彼女も折れて遂に試してくれることになりました。
その後、彼女の情緒は不安定で有り続け、病院を抜け出して私の住む町の近所まで来ていながら知らせなかったり、会いに行こうか? と言ってもご主人との時間を優先して断られたりしました(これは当然です。私は所詮、人目を忍ぶ恋の相手なのですから・・・)。一人になりたい、といって一週間放っておかれたこともあります。私はそのすべてを受け入れました。そうすることで、少しでも彼女の支えになれれば、と思うからです。
この治療法、即効性がある訳ではなく、体の自然治癒力を徐々に強化していくタイプのアプローチです。私が普段、彼女と出来る接触は、携帯のメールだけ。これが滞ると、不安が募ります。体調が悪い。ひどい頭痛がする。時として届く不調を訴えるメールに、私はどうすることも出来ません。自分の存在意義を疑いますが、それでも私は聞くだけでも励みになるなら、という気持ちで彼女の言いたいことをすべて聞くように心がけています。
こんな書き方をすると如何にも私が全身全霊で支えているように聞こえるかも知れませんが、実態はそんなことはありません。週末は家族の都合を優先しますし、メールが来ても気付かないこともあります。
私は彼女に、しつこい程に新しい治療法を続けることを説き続けます。言われる側からすると嫌だろうな、と思ったりしますが、私は彼女に生きて欲しい。前回の入院時にもそれが結果的に彼女のためになりました。希望があるのなら、それを信じて試し続けたい。
生きて欲しい。私のためでなくとも良い。自分のために、自分が大切に思う人のために生きて欲しい。
私は彼女にそう言い続けます。それはひょっとしたら、彼女が今、聞きたい言葉ではないのかも知れません。私は立場をわきまえない、出過ぎたことをしているのかも知れない。この治療法を忠実に実行したとしても、本当に治る保証は何処にもない。
私にも迷いがあります。しかし彼女に生きて欲しい気持ちは変わらない。
だから私は、彼女と私の旅は続いている、と思うことにしました。二人で眺める車窓からの風景。運転席と助手席の距離は大きく、隣を向いても顔が見えないこともある。どちらが運転しているのかもはっきりしない。眺める風景も、ひょっとしたら同じでないかも知れない。
でも。
私は彼女と、同じ車に乗っている、と信じたいのです。その車を彼女が降りたい、とはっきりと意思表示をして降りる日が来るまで、二人の旅は続くのだと。その日は今日かも知れないし、永遠に来ないかも知れない。誰にも分かりません。私が先に車を降りたくなるかも知れない。こんな不確かな旅はありません。
不倫と呼ばれる関係に、確かなことなどそもそもあるはずがありません。それを承知でこの関係に飛び込んだのが彼女と私なのです。
だから、旅は続く。何時終わるとも知れず。多くの未知数を載せて。
彼女は言います。一番怖いのは、自分がいなくなった後、ご主人や私の記憶から彼女が消えてなくなること、だと・・・
私は言いました。そんなことは有り得ない。たとえ彼女が病に倒れても、私の記憶から彼女が、二人で過ごした時間が消えることはない。
こうしたやり取りも、運転席と助手席の間で交わされる会話の一部なのでしょう。
彼女と私を乗せた車は走り続けます。行き先は・・・
そう。この旅が終わるまで、誰にも分かりません。
(完)
このウラログへのコメント
ベソさん・・・とっても素敵です♪
なぁーの祖父は余命半年と言われ、15年生きました。
生きているんだからもっと命を大切にしなきゃと感じます。彼女どんな境遇でも生きなきゃ…と思うのですが。
できるだけ支えてあげて下さい。
不倫・・もしかしたら、ベソさんが一番つらい立場かもしれませんね。
つらい旅になりましたね…
貴方の想いが、彼女さんにも伝わりますように…
あれから4年半。
彼女の記憶は薄れることなく、わしの中で生き続けている。
それは彼女が望んだことやったんやろうか…
彼岸に旅立った人には、自分がそちら側に行ったら会えるんやろうか。
あれから6年弱。
彼女との思い出は薄れることなく、今もわしの胸で生き続けてる。
これが彼女が望んだことやったんやろか、と今でも自問してる。
思い出の中の彼女は、いつまでも美しい。
そして鏡の中の自分の姿は、日々衰えて行く。
この現実に苦笑しつつ、彼女と過ごした僅かな時間を思い出の中で追体験する。
我ハ墓守也…
6年間。
彼岸で彼女に再会することが叶うならば、彼女はわしを笑って許してくれるやろか、と考える。
毎年のことながら、
この時期は苦しい。
春の訪れを待つように、
わしは記憶の中の彼女の救済を求める。
それとも、
彼岸に旅立ったことで、
彼女は一切の苦しみから解放されたんやろうか。
願わくは、そうであって欲しい…
6年間。痛みから解放された彼女が、今は安らかに過ごしてくれていることを願うばかり。
ほんまに、夢のような出来事やった。
しかし、わしと彼女は、僅かではあるが現実に時間を共有した。
そしてその記憶はわしの中で今も生き続けている。
このログはその墓標であると共に、二人が過ごした時間の記念碑でもある。
記念碑…
もうすぐ七回忌…
彼女は今、何処でどうしているのか。
当然ながら、記憶の中の彼女は歳を取らない。
対照的に鏡の中の自分は日々老い続ける。
祈り。願い。手向け。
虚空に消えた思いは、何処へ行くのか。
我ハ墓守也…
七回忌。
記憶の中の彼女は今も微笑んでいる。
そして悲しそうな笑顔を見せる。
わしは自分がしたことを問い、そこに少しでも意味があったことを信じようとする。
風に散る花弁は儚い。
忘れられないことが彼女の願いやった。
ならば、その願いは叶えられている。
彼女は彼岸でわしのことなど忘れて、幸福感で満ち足りた生活を送ってくれていることを願う。
生きる事も死ぬ事も特別な事ではありません。
此岸も彼岸も近いものです。
折りしも今日は彼岸の入り。
若輩者が失礼いたしました。
> masagoさん
拙文をお読みくださり有難うございました。わしにとってはこれが彼女の墓碑です。こうした生涯を生きた女性がいたことを知る人が増え、彼女も喜んでいることと思います。
8回忌。早いものよ。
毎年この時期が来ると胸が苦しくなる、と去年記した。それは変わらない。
救済。彼岸。涅槃。衆生。解脱。
彼女は今、何処にいるのか。
痛みのない世界で、満たされた気持ちで過ごしていてくれることを願う。
南無阿弥陀仏…
このログを書いた時期にフレンドやった女性ユーザーが再登録しはった。メールをやり取りして当時のことが改めて思い出された次第。
人は記憶の中に生きる。記憶こそが人格。ならば彼女を記憶している人が死に絶えるまで彼女は生きていることになる。そしてその後は彼岸での再会が叶うのか。
彼女が今でもわしに再会することを望んでくれているかは分からねど。
わしは今でもこうして生きているよ、とわしはいつも、記憶の中の彼女に語り掛ける。それを聞いて彼女が優しく笑う気がする…
わしは苦しくなると彼女のことを思い出し、共に過ごした僅かな時間の記憶を反芻しその面影に手を触れようとする。
彼女は今、何処にいるのか。痛みのない世界で、一切の苦痛から解放され微笑みながら日々を
過ごしていてくれることを願う。
と、わしが願うのはまったくの独り善がりな訳で。
勝手な男よ。
九回忌。そういう言葉があるか知らねど。
彼女がわしの記憶から遠ざかることはない。それは自分でも不思議に感じる程鮮明に残っている。
恐らく、記憶を美化している部分はあるんやと思う。
当時のわしが彼女にとって何をしてあげられたのか。良く自問するが、答えが出る筈もない。
唯一の願いは、彼女が今、痛みも後悔もない世界で彼女本来の優しさを取り戻して過ごしてくれていること。
毎年、この時期には胸が苦しくなる。
わしは、今でもこうして貴女を悼んでいるよ、と心の中の面影に語り掛ける。
これが自己満足に過ぎないことは良く承知している。
しかし、それでええやろう。
忘れられないことが彼女の望みやった。
ならば、わしはその願いを叶えよう。
…我ハ墓守也。
桜が咲いた。
あの日、二人で並んでぽつんと立つ桜を眺めながら、「もう春なのね…」とぼそりと呟いた彼女の言葉を思い出す。
春は胸が苦しくなる。土筆も、桜も、記憶を呼び覚ます。
これが供養なのか。
少なくとも、忘れられたくない、という彼女の願いを叶えていることにはなるが。
今年の桜はあと数日で散るやろう。
共に散るのは何か。
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