- 名前
- 清英
- 性別
- ♂
- 年齢
- 64歳
- 住所
- 東京
- 自己紹介
- 都内江東区有明のマンションに一人寂しく暮らして居ます。長年連れ添った愛妻は4年前他界...
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歳月不待人②
2024年12月09日 05:04
本日の清英の書作品は
歳月不待人②
さいげつひとをまたず
意味
月日は過ぎやすく、機会は失いやすい事をいい、そのため、たゆまず勉学や仕事に励むべきである、又は、思い切って行動を起こすべきということを説く。時は人を待たず。英語:time and tide wait for no man 陶淵明『雑詩十二首(其の一)』の一節
人生無根蔕 人生根蔕なく
飄如陌上塵 飄として陌上の塵の如し
分散逐風轉 分散し風をしたがいて転ず
此已非常身 これすでに常の身に非ず
落地爲兄弟 地に落ちては兄弟と為る
何必骨肉親 何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや得歡當作樂 歓を得てはまさに楽しみを作すべし
斗酒聚比鄰 斗酒 比鄰を聚めよ
盛年不重來 盛年は重ねては来たらず
一日難再晨 一日再びはあしたなりがたし
及時當勉勵 時に及びてまさに勉励すべし
歳月不待人 歳月人を待たず
(義解)人生は、これを木にたとえれば幹に根があり、花ふさにへたがあってしっかりとめておいてくれるようなものではない。パッと飛んでしまうこと路上の塵や埃のようなものだ。風のままに分かれて転がりゆくこの体は常住普遍のものではないのだ。我々人間同士は、地上に生まれ落ちるやお互いに兄弟となっている。骨肉の縁続きの者だけが親しいものと決まったわけではない。だから、一斗の酒をもってあたり近所のものを寄せ集めて、おもしろいときには寄り合って楽しみをなすべきだ。盛の若い年は二度とこぬ。一日に二度の朝がくることはない。折につけ、せいぜい遊ぶべきだ。年月が過ぎゆかず、私を立ち止まって待っていてくれることはない。
陶 淵明(とう えんめい、興寧3年〈365年〉[1] - 元嘉4年〈427年〉11月)は、中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字が淵明[2]。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。尋陽郡柴桑県(現在の江西省九江市柴桑区)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世には「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。陳寅恪の研究によると、現在の湖南省にある五渓蛮出身[3]。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E
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