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本日の書作品は 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷かりけり

2020年09月21日 00:08

本日の書作品は 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷かりけり

本日私が書いた書作品は

春は花 
夏ほととぎす 
秋は月
冬雪さえて 
冷(すず)しかりけり

道元(曹同宗・1200~1253)
出典 「傘松道詠」

〔訳〕春になれば花が咲き、夏にはほととぎすが鳴き、秋には月が美しく、冬には雪が降って身がひきしまる。

 この歌は、道元が45歳から54歳にかけて、折にふれて詠んだ和歌60首を集めた
『傘松道詠』におさめられているものであり、『本来面目』という題がつけられている。
 道元は焼香・礼拝・念仏・読経などの行法をとらず、只管打座(ひたすら座禅に徹すること)こそ真実の修行であるとした。そして座禅することにより、自己の心身のとらわれから脱し、自己と世界という対立を離れた本来の自己の姿が現れてくるとし、このさとりの境地を「本来面目」として詠んだのである。
 ところで、道元はそのようなさとりのあり方について、「正法眼蔵」「弁道話」の巻にこう述べている。
 「もし人一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端座するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりになる。」
 すなはち、もし人がたとえひとときであっても、その身・口・意のすべての働きを仏の相に合わせて座禅に安住すれば、そのとき全世界はことごとく仏の相となり、虚空全体はさとりになるというのである。したがってこの境地においては、自己と世界という対立はなく、すべてのものがそれぞれのありようにおいてそこにある。
 春の花、夏のほととぎす、秋の月、冬の雪はそれぞれ本来の面目を発揮して、絶対的真理として現れているのである。
 まさに道元の透徹した宗教的境地が四季の風物に託して見事に詠いあげられている。

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