- 名前
- 杢兵衛
- 性別
- ♂
- 年齢
- 48歳
- 住所
- 東京
- 自己紹介
- 悠々自適、風雅な隠居生活
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最期は、最後か?
2015年08月29日 08:19
死にまつわるさまざまな場面。事故死、病死、殺人、戦争。。いずれにしろ死ぬ人を看取り、死んだ人を見送らねばならない。何月何日何時と予定されず、不意にやってきて、対応を迫る。死というものは、とんでもないものだ。
人は自分の顔を自分で見ることはできない。 「私」の素顔を見ているのは「あなた」だ。 /「私」のみる「私の顔」は「私」の虚像だ。
だから、私はあなたとともに生きている。夫がいるから妻、こどもがいるから母親がいるから子生徒がいるから先生友人がいるから友人見知らぬ他人がいるから見知らぬ他人プラスの意味でもマイナスの意味でも、誰か/何かと関係を持たない私だけの「私」というのは存在しない。人間は人の間で育てられるから、人間になる。狼に育てられたら狼になる。現に狼に育てられた人間は、二足歩行せず、(人間の)言葉もしゃべらなかったという。狼に同一化するからだ。人間は何かに同一化しなければ自分を持つことができないのだ。だから死はこまる。同一化の対象がなくなるのだから。長年連れ添った夫婦の片方がなくなったりした時、大事な一人息子が結婚してしまったあとの母親とか、夏の甲子園に向けてひたすら練習していた高校球児が、決勝戦で破れたとかいう時、残されたもののウツの原因を「対象喪失」と言ったりする。同一化の対象がなくなったのだ。これが「かなしい」ということの意味だろう。対象を失うとは自己を失うということと同じなんだな。竹薮はこの春「イノ」を失った。この仕事について生徒をなくしたのは初めてのことだ。「イノ」は本当にいいやつで、彼を取り囲む人間関係も素敵で、竹薮は死を迎える病室でほんとうに彼を見直した。以前から大好きだったが、ますます好きになった。そして、こういう素晴らしい若者がなんの因果で死を迎えて、去っていかなければならないのかと、不条理を呪った。死んだ方が世の中の為になる奴が五万といるのに、なんで生きてた方が世の中の為になる「イノ」が死ななきゃならないのか。加えて、竹薮にはその不条理を阻止する力が、毛筋ほどもないときてる。
じた・ばた。身の置きどころがない感じ。そこへ、ばあばさま経由で「天啓」が「喪の仕事をしているのですね」そうだ。竹薮はイノの死を生きているのだ。つまり死んでいったイノに同一化しようとしているのだ。同一化それ自体には具体的存在が必須の条件だというわけではない。たとえば、竹薮は二十歳の時に父をなくしているが、この時はほとんど動揺しなかった。父は明治生まれで、大正デカダンスを戦後も継続したような、めちゃくちゃな男だった。十代の竹薮にとっては、生きるとはまず父親との距離をはかることで、考えるとは父親について考えることだったのだ。だから、すでに存命中に同一化するべきはきちんと同一化し、するべきでない部分も整理して、竹薮の状態としては<やりきって>いたために、具体的存在がなくなっても動揺はなかった。一時的な情動の動きはもちろんあったが、自分自身についてはほとんど変化はなかった。イノに関しては、竹薮はやりのこしたことが、山ほどあった。大学うかったら、遊ぼうと計画していたことの一つや二つあったのだ。心理や福祉を学ぶ過程で話し合いたいこともあったのだ。そういうことは全て叶わなくなった。叶わなくなったのは「イノ」も同じだ。竹薮は「叶わないイノ」に同一化しなくてはならないのだ。「イノ」に同一化しようとして叶わないことを嘆くのではなく、「叶わないイノ」に同一化するのだ。それが死を受け入れるということだろう。それがわかった途端、同一化できていた。身の置きどころがないとじたばたしていたのは、「イノ」に同一化していた、一つ前の自分の残骸だったんだと思う。竹薮は「イノ」の生をいきるかわりに「イノ」の死を生きる機会を得た。どちらも「イノ」を生きることにかわりはないのだ。多分(まだ淋しいのは事実なんで)。このように考える時、死の問題は生の否定としてではなく、生の連続として捉えられると思う。そうすると、生きることに無闇に執着するのはいかがなものか。。ということになる。不老不死や、クローンや、なんやかや。。というわけで最後に一言。あなたは生きた人しか愛せませんか?逝ってなお、然るべく愛し愛される作法を身につけたいと思う昨今の竹薮である。
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