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狭くなる日本(沖縄)
2010年09月26日 21:43
沖縄は日本の領土とわかっていても沖縄史は知りませんよね。調べてみました。
605 流求初めて中国史に現れる
607 隋の煬帝、使いを流求に派遣するも言語通ぜず島人1人を連れ去る
608 隋の煬帝、再び流求を招撫するも従わず島人の布甲を取って去る
609 隋の煬帝、流求を攻め、城を焼き男女千人を虜にして帰る
610 隋の武賁郎将陳稜、流求を撃つ
753 阿児奈波(沖縄)初めて日本史に現れる
803空海の『性霊集』に留求の二字初見
853 唐商欽良暉漂着遣唐使の派遣停止(894)
貝塚等の調査結果から、もっと古い時代の縄文時代は、奄美諸島から沖縄本島までは九州文化圏で、宮古・八重山諸島は東南アジア文化圏にあったようです。両者は次第に交流を通じて同じ文化圏に統一されていき、次の世紀から中国の影響を強く受けるに至って、奄美諸島から宮古・八重山諸島まで一つのまとまった琉球文化圏を形成していきます。
1153浦添城の高麗瓦造られる
1165 源為朝、運天港に漂着と伝わる
この頃から、中国製陶磁器の搬入が見られる
1265 僧禅鑑来琉し仏教を伝える。浦添に極楽寺を創建
浦添ようどれ陵創建(英祖王の墓)
1266大島諸島、中山に初めて入貢
1273浦添城の高麗瓦造られる
1296 元が攻め、130人を虜にして帰る
この頃から、中国製陶磁器が大量に輸入される
14世紀 (三山の鼎立~進貢貿易の始まり)
1317宮古島人60人余り乗る貿易船が、シンガポールへ行く途中台風に遭い中国温州に漂着。14人救助
1361 この頃までに察度が首里城に移る(異論有り)
1368 僧頼重、那覇に護国寺を開設
南朝、明に使者を送る(1371)
1372中山、初めて中国に進貢
1380 南山、初めて中国に進貢
1383北山、初めて中国に進貢
中山、王子玉之を朝鮮(高麗)に遣わす 朝鮮の使者来琉
以後、朝鮮とも交流
1390宮古(与那覇原勢力の真佐久)、初めて中山に入貢南北朝の合一(1392)
宗氏による朝鮮との国交開始(14c末)
1393浦添城の高麗瓦造られる
1396北山王攀安知、明の冊封を受ける
1368年の明の建国を受けて、中山・南山(山南)・北山(山北)の各勢力がそれぞれ王として明に進貢しています。ここから中国との貿易は私貿易から公貿易と変わっていきます。
中国側の資料に、琉球国「中山王察度」の文字が現れ、これまでの”伝説”が”史実”であることを証明してくれています。また、三山が争っている琉球に対して「使いを遣わして、争うのをやめなさいと申し渡した」という興味深い記述もみられます。
15世紀 (琉球王国の誕生~全盛期)
1404中山王武寧、南山王汪応祖、明の冊封を受ける
1405 来遠駅(琉球館)福建泉州にできる
1406 尚巴志、中山王武寧を滅ぼす
(攻めたのは浦添城か?首里城か?)
尚思紹(尚巴志の父)、中山王に即位
これ以後(~1427の間に)首里城へ移る(異論有り)
他魯毎、南山王に即位
博多で琉球との貿易始まる(1414)
1416 尚巴志、今帰仁城を攻め、北山を滅ぼす
1422 尚巴志、中山王に即位
護佐丸、座喜味城に移る
この頃、喜納焼始まる(読谷)
1427首里城前に龍潭(池)を掘る
1428中山門(国門)創建
1429 尚巴志が南山を滅ぼし、琉球統一(第一尚氏)
1440 護佐丸、中城城に移る
1441 島津忠国、足利義教から琉球を賜る
1453 志魯・布里の乱で首里城炎上
1466喜界島を征討
1469琉球館、福州に移転
1474宮古の仲宗根豊見親、宮古を統一し中山に入貢
1477 尚真王即位(琉球王国最盛期の王)
首里城歓会門、久慶門創建
1478武器を王府に収めさせる(刀狩)
1480室町幕府、薩摩を介して来貢を促す
薩摩を介して幕府が琉球船を勧入
1481薩摩へ初めて綾船を遣わす
1500八重山のオヤケ・アカハチを征討
14世紀末から三山の王がそれぞれ明に進貢していたが、そのことが琉球内の勢力争いに拍車をかけ、統一を早める結果になった。
しかし、まだ各地に有力な按司がいてその王権も不安定なものだった。尚巴志の死後、王位継承の争いである志魯・布里の乱、有力按司の護佐丸・阿麻和利の乱と続くが、その後有力按司に推された金丸が、クーデターによって王位に就くという事件で混乱に終止符を打つ。(これ以後を第二尚氏王統という)
金丸は、即位後「尚円」と名乗り明の冊封を受ける。
明への進貢貿易が始まった14世紀末から、東南アジアにほぼ毎年出かけていた16世紀中頃までが琉球王国の全盛期と言えるでしょう。
しかし、応仁の乱の前後から日本海域の治安が悪化したことから、琉球船は朝鮮や堺に直接行くことを止め、それに伴って日本海商(中国商人含む)が盛んに琉球にやってくるようになる。以後、朝鮮や日本との交易は日本海商(中国商人含む)を仲立ちとしたものとなる。しまいには、琉球使節を偽装した日本海商が朝鮮に現れたりして、治安ははなはだ悪くなる。また、
ただ、正式な国交による進貢貿易と私貿易(密貿易)では品物の質・量が違うため、日本へ来航しなくなった琉球への領土的侵略の意識が薩摩(日本)の中に芽生えていく。まず薩摩は、博多商人の琉球行きを妨害し、「琉球→薩摩→堺」の交易ルートを作って琉球貿易の独占を図りはじめ、次第に領土的野心をむき出しにしはじめる。
16世紀 (全盛期~衰退へ)
1501玉陵を築造
仲宗根豊見親宮古頭職となる
朝鮮に使いを遣わす
これを最後に朝鮮との直接的な国交は途絶える
以後は博多・対馬の商人を介した間接的な交流
1502弁財天堂創建、朝鮮からの方冊蔵経を納める
1506 明への進貢、1年1貢制となる
久米島具志川按司を征討
1508首里城北殿創建
1516三宅国秀、室町幕府の許可を得て琉球征服を計るが、薩摩がこれを阻止する
1519 園比屋武御嶽石門、弁が嶽の石門創建
1522 明への進貢、2年1貢制となる
鬼虎の乱(与那国島)を平定
1523 瑞泉門の龍樋、明より渡来 進貢貿易の中断
1526 各間切の按司を首里城下に集住させる
1529守礼門(首里門)創建
1531 『おもろさうし』巻1編集
1537大島を征討
1543首里城東南の城壁を拡張、継世門建造(~1546)
1554那覇の港に屋良座森城・三重城(砲台)を築造
1556倭寇を撃退する
この頃、琉球三味線日本へ伝来
1559 日本商人の刀を、琉球滞在中は預かって帰国時に返却する方針を薩摩へ伝え、理解と協力を求める
1570東南アジア諸国との交易を断つ
1571大島を征討
1574 この頃から薩摩が威圧的態度をとるようになる
1577大友氏、琉球に遣使
1582豊臣秀吉、琉球を亀井茲矩に与える
1588秀吉、薩摩に命じて琉球を招諭す
1589秀吉、琉球に使者を派遣
秀吉に使者を派遣
1591秀吉が朝鮮征伐の食料供出を琉球に命ず
1592秀吉が琉球の兵賦を督促
亀井茲矩、琉球征服を計画
1593 食料を薩摩に送る
薩摩、続いて輸送せよと命ず
1594薩摩の命令に対し、琉球の窮状を訴え、これ以上の食料供出拒否の意向を伝える
1597宮古島に中国より甘藷伝来
17世紀 (植民地支配の始まり)
1604薩摩、琉球王を問責する
1605 野国総官、中国より甘藷を移入
儀間真常、甘藷伝播栽培法を研究朝鮮との国交再開(1605)
1606薩摩、琉球征服を幕府に請い許される
1608薩摩、琉球を招諭するが、琉球はこれを拒否
1609薩摩軍、琉球に侵攻
以後、薩摩の琉球支配始まる
尚寧王、薩摩へ連行される(江戸へ)
1611薩摩、「掟十五条」を出す
大島諸島、薩摩に分轄
尚寧王、帰国(薩摩への屈辱的な誓約書に署名)
謝名親方は薩摩で斬首(誓約書への署名を拒否)
1612 明への進貢、10年1貢制となる
薩摩に琉球館が置かれる
琉球人の日本化するのを薩摩が禁止
1613薩摩に年頭使者を派遣
1619宮古の各村に在番を置く
1621 尚豊王位に就く(以後、王の即位に薩摩の承認を得ることが慣例となる)
1622南蛮船八重山に来航、キリスト教を布教する
明への進貢、5年1貢制となる
1624薩摩が苗字衣服の日本風を禁止
薩摩、琉球に大和横目を置いて監視
1626薩摩、将軍及び天皇に琉球楽童子に楽を奉せしむ
1628首里城南殿創建(薩摩の役人用)
1629宮古の在番役人常駐制になる
1630八重山でキリシタン罪で火あぶりの刑
1631薩摩、琉球に在番奉行を置く
1332八重山に在番奉行を置く
1633 明への進貢、2年1貢制となる
1634薩摩の命により平田宗次の弟を処刑
1636薩摩、中山王号をやめさせて国司と呼ばせる
1637 先島の島民に人頭税を課す
1639南蛮船八重山に漂着、幼女1人を連れ去る
1640南蛮船八重山に漂着
1646砂糖・ウコンを初めて薩摩へ送る
1647 三司官の隔年薩摩滞在を免除
1649茶道職を置く(大和的教養)
1658 羽地朝秀、薩摩に3年間滞在する
1660首里城正殿炎上
1661 羽地朝秀、薩摩へ正殿復興の援助陳情に行く
1662砂糖奉行を置く
1665北山監守、首里に引き上げる
1666 (薩摩の掟十五条を強化する改革を断行)
薩摩への貢祖の3分の1が砂糖代納になる
1667 聞得大君を王妃の次の位とする
大和芸能を奨励
1669 年2回(春・秋)各地に巡察使を送る
1687宮古に漂着した南蛮人を薩摩~長崎へ転送生類憐れみの令
1688薩摩、京都に琉球唐物問屋を設置
(貿易品や、砂糖・泡盛などを高額で売りさばく)
1609年から1879年まで、これまで琉球の人々が経験したことのない植民地支配の時代がやってくる。しかし、文化的には薩摩を支配し、様々な文化が琉球から薩摩へと伝わっていく。
明への進貢貿易もそのまま継続されたが、それまで自国に入っていた貿易の利益は薩摩の利益になった。その後270年間も、「薩摩の利益のため」に「自国の利益にならない貿易」を「王国存続のため」だけに続けることになる。
18世紀 (長い植民地支配~社会の変化)
1702 島津氏、琉球地図を幕府に献納
1704 甘藷、琉球から薩摩へ渡る 南蛮人漂着を薩摩に通達
1718士族女子の遊女禁止植民地支配による社会の変化と士族の疲弊を表す顕著な出来事。貧士は首里を離れ、地方の農村に開拓移住した。こうして出来た集落を、屋取(やーどぅい)集落と言う。
1733首里、久米、那覇、泊などの職人の税を免除
模合法を設け、士族を相互扶助させる
識名園創建
1734 平識屋朝敏ら、16人処刑
1735 各間切に検者を派遣
1737 (那覇は開港場のため制限無し)
1755唐手(空手)中国より伝わる
1756 『琉球見聞録』『琉球国史略』を冊封副使の周煌が著す
1759 『六諭衍義』を豊川親方英正が和訳する
1777薩摩に漆器の技術を伝える
19世紀 (大国の荒波~琉球王国滅亡・沖縄県の誕生)
1816イギリス人バジル・ホール来琉 イギリス艦40日間滞在する
1843八重山・宮古にオランダ船来航
1845与那国島に外国船来航
1846イギリス船来航、ベッテルハイム滞在する
1847薩摩藩、守衛のため兵100余人を派遣
外国船しきりに来航
1849アメリカ船久米島に来航
1851ルーマニア船来航(?)
外国船具志頭沖に来航
外国船八重山に来航
1852 中浜万次郎、薩摩へ送還
ベッテルハイム、琉球語研究を始める
外国船具志頭沖に来航
イギリス船、八重山に漂着。清人380人を置き去り、砲撃する。生存者172人、翌年清に送還する
1853ペリー来航(5月)、沖縄島・西表島を調査
外国船宮古・八重山に来航
ベッテルハイム帰国
琉米修好通商条約
1855フランス艦来航、琉仏修好通商条約
外国船漂着 仏・蘭とも和親条約
オランダ船多良間島沖で難破。27人救助
1859オランダ船来航、琉蘭修好通商条約
1862薩摩で琉球通宝鋳造(琉球では使用されず)
薩摩から牧志朝忠に出頭命令。渡航途中、伊平屋島沖で投身自殺
1869 島津久光、鹿児島県知事となり、薩摩・大隅・日向・琉球を管理することになる
1871宮古島民、台湾に漂着し54人殺害される
1872琉球藩となる(国王尚泰は藩王)
琉球藩、外務省管轄となる
1873ドイツ船宮古で座礁、救助する
1874琉球藩、内務省管轄となる
最後の中国への進貢琉球人殺害を理由に台湾出兵
1875 福州琉球館廃止。最後の帰唐船入港
日本軍分遣隊来琉
1876 日本が琉球と清の国交断絶を交付
藩王、使いを遣わし歎願する
渡清を禁じられて進貢船欠航
幸地親方、密書を持って清国に出航する
1878 日清間で、琉球を分割する案が出る
英・米公使へ分割問題の仲裁を依頼
1879廃藩置県令下る、尚泰王退位(3/11)
松田道之、琉球処分官として来琉
(随員32人、警官160人、軍隊400人)(3/25)
琉球藩を廃し、沖縄県となる(3/27)
首里城明け渡し(3/31)
尚泰、東京へ(5/27)、東京在住命令下る
鹿児島琉球館を廃止
清、琉球の分割案を提出(1879)
(アメリカ大統領案)
日本、分島増約案を提案(1880)
1884 大東島を調査し、沖縄県管轄とする
20世紀 (戦争の時代~アメリカ統治~復帰)
1901 大東島に本土より移住始まる
1922鉄道開通(嘉手納線)
唐手(空手)を本土で盛んに普及する
1933那覇~首里間の路面電車廃止
1942民間人の竹槍訓練始まる
1943 防空演習各地で盛んに行われる
1944県庁役人家族、本土へ引き上げ始める
学童疎開、台湾・九州へ
学童疎開船対馬丸、魚雷を受け沈没
沖縄全域に空襲、那覇市90%全焼
1945
3/23 大空襲
3/25 慶良間上陸
3/31 那覇沖の神山島(チービシ)上陸
4/ 1 嘉手納上陸
4/ 2 嘉手納飛行場占領、宜野湾へ進出
4/ 5 沖縄島を南北に分断、北部に軍政府を置く
4/ 6 嘉手納・宜野湾で激戦
4/ 8 首里城下の司令部に艦砲射撃始まる
4/ 9 本部半島に上陸、津堅島占領
4/11 那覇北方の日本軍陣地に米軍殺到
4/13 米軍政府、読谷村に設置
4/16 伊江島上陸
4/22 浦添占領
4/26 米軍前線突破
4/27 日本軍首里方面の米軍を総攻撃
5/17 石嶺占領
5/21 首里要塞占領
5/24 日本軍飛行場を逆襲
5/28 首里城下の司令部、南部へ撤退、首里占領
5/31 那覇突入
6/ 6 那覇飛行場占領
太田少将、「沖縄県民かく戦へり。県民に対
し後世特別のご高配を賜らんことを」の電報
を打つ
6/11 米軍バクナー中将、降伏勧告
牛島司令官、これを拒否
6/12 阿南陸相より知事宛に激励の電報
6/21 米軍ヨセフ司令官任命
牛島司令官、陸相宛に決別の電報を打つ
6/23 牛島司令官、最後の一人まで戦えと指示し
て摩文仁で自決、組織的戦闘終結
6/24 米軍掃討戦を開始
7/ 2 米軍沖縄戦の終了を宣言
ソ連、対日宣戦(8/8)
無条件降伏(8/15)
9/2 日本軍の残存部隊と米軍間で降伏調印式
沖縄戦完全終結
サンフランシスコ平和条約(1951)
日米安全保障条約(1951)
1970 コザ暴動
1972沖縄諸島本土復帰、再び沖縄県となる
以上が琉球、沖縄が本土と深い関係があったのがわかります。日本の領土であることはまぎれもありません。
ただ、安保条約が結ばれた時はまだアメリカ領だったのですね。それが本土復帰されても基地問題は棚上げになって今に残っているわけです。つまり沖縄の意見が取り上げられずに条和久の傘の下にいるのです。それについて皆様はどう思われますか。
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