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老 害
2024年12月28日 09:50
自分の作品が世界的に評価され名声を得、その発言、行動は常にニュースになる。そうなった人は自らの行為に気を付け、その影響力を考慮せずに発言することは当然、許されない。
これね、わしは常識だと思うんですが、皆様はどう思われますか?
このことを改めて考えたのは先月半ばでした。覚えておられる人も多いと思いますが、宮崎 駿監督がフィリピンのマグサイサイ賞を受賞した際、自らは欠席したものの以下のスピーチが代読されました。
(https://www.buzzfeed.com/jp/kenjiando/miyazaki-magsaysayより引用)
「私が初めてラモン・マグサイサイ賞について聞いたのは子供の頃でした。確か学校の校庭で、先生が私に、そのような賞が作られたと教えてくれました。その名前は印象に残り、それ以来ずっと私の心の中に残っています。この賞をいただいて、改めてフィリピンのことを思いました。
2016年、天皇皇后両陛下は第二次世界大戦中に市街戦の舞台となったマニラを訪問し、命を落とした数千人に哀悼の意を表しました。当時、日本人は多くのひどいことをしました。彼らは多くの民間人を殺害しました。日本人はこのことを忘れてはならないのです。その事実はいつまでも残ります。
このような歴史を踏まえ、私はフィリピンからラモン・マグサイサイ賞を厳粛に受け取ります。どうもありがとうございます。
(引用終わり)
これを読んで、皆様はどう思われますか?
まるで、「彼ら」日本軍が一方的に、楽しむかのように無辜の市民を虐殺して死体の山を築いたように思いません?
わしにはどうにも引っ掛かったのでちょっと調べてみました。
ウィキペディア「マニラの戦い(1945年)」から引用します。
マニラの戦い(マニラのたたかい)は、第二次世界大戦末期の1945年2月3日から同年3月3日までフィリピンの首都のマニラで行われた日本軍と連合軍の市街戦のことを指す。日本軍は敗れ、3年間に及んだ日本のフィリピン支配は幕を閉じた。70万人の市民が残留したままで行われた戦いは太平洋戦争では最大規模となる市街戦となり、10万人の市民が巻き添えで死亡した。
(中略)
1945年1月に連合軍はルソン島に上陸し、2月3日、アメリカ陸軍第14軍団(第1騎兵師団と第37歩兵師団)がマニラ地区へ突入し、その日のうちに連合国民間人の収容所となっていた聖トマス大学を解放した。市街地に立てこもった日本軍に対し、アメリカ軍は徹底した砲爆撃を加えた。これにより、市街地は廃墟と化した。アメリカ軍の支援を受けたフィリピン人ゲリラ約3,000人も、戦闘に参加した。
(中略)
2月6日にマニラ海軍防衛隊は以下の報告を打電した。
敵「マニラ」に侵入するや 市民は双手を挙げて之を歓迎万事我が戦闘行動を阻害しつつ 市民は約70万と認めらるるも 3日より5日に至る「パシツク」河以北戦線に於いて 奇襲攻撃を不可能ならしめたるは「ゲリラ」化せる一般市民にして 攻撃前に米軍に内通せられ 肉攻隊員にして市民の射撃を受け 米軍宛所在を表示せられ 目的を達せざりしもの枚挙に遑あらず 米軍侵入の地帯は米国旗を掲揚しある等 敵国人として差当り処置を要するものあり 「マニラ」市は地盤軟弱にして 高層建物も地下室を有するもの殆んど無く 砲爆撃に依る振倒大なり 現有焼夷弾数発により 内張、床、精食等に点火消失すること予想以上なり 就中弾薬の誘爆 特に今回の如く弾庫、重量施設に爆破準備をなしある場合は戦闘実施に相当の困難を感じ 市街戦実施上考慮を要するものと認む
— 戦史叢書 『南西方面海軍作戦』 p.507
市中心部と港湾部にもアメリカ軍が突入した。マラカニアン宮殿は激戦地となり破壊された。南からのアメリカ第11空挺師団は2月11日にニコラス飛行場を占領し、13日には北部からの第14軍団と接触した。日本軍は官公庁などの強固な建造物に拠って抵抗したが、包囲下に陥っていった。
(中略)
2月24日、岩淵少将は、拠点を死守する旨の決別電を発した。25日、市内の日本陸軍部隊はついに一斉脱出を試みたが、途中の戦闘で野口大佐と2人の大隊長は戦死した。翌26日に岩淵少将もできる限り部下を脱出させた後に司令部で自決した。3月3日、アメリカ軍はマニラでの戦闘終結を宣言した。
(中略)
日本軍はマニラ市民から敵対的感情を持たれていると考えており、実際にゲリラ化した市民に攻撃されたため、外から迫る米軍と対峙するに際に挟み撃ちにされないよう、住民を大量に殺戮したとされる。上述の通り現地で編成した寄せ集めの部隊だったため規律や士気に問題があり、住民への暴行や殺害が多々発生した。現地人だけでなく中立国を含む外国人の婦女への性暴力も行われた。
米軍上層部は当初市民や都市基盤に被害を残すことを避けるため重砲火の使用禁止を命じてマニラ奪還に臨んだが、コンクリート製や石材製の建築物に立て篭もった日本軍の激しい抵抗に直面した現場からの要請により結局は規制を解除した。アメリカ軍は日本軍の防衛陣地を徹底的に破壊する為に市街地に重砲による砲撃を行い、多くの民間人が犠牲となった。
(中略)
日本軍の戦死者は約12,000人、アメリカ軍の損害は戦死者1,020人と負傷者約5,600人であった。市民の犠牲者は約10万人といわれる。マニラ海軍防衛隊の残存兵力は南部に脱出し、振武集団の指揮下で古瀬部隊(指揮官:古瀬貴季海軍大佐)として再編成された。
マニラ所在の捕虜収容所2箇所も解放され、連合軍捕虜約5,800人及びフィリピン人の囚人約3,800人が無事にアメリカ軍に収容された。第14方面軍洪思翊中将らは捕虜を解放する方針を決めており、連合軍侵攻以前の早期解放も検討していたが、食糧確保などを心配した捕虜の反対があったために、連合軍部隊の到着を待って引き渡しを行った。この後に戦犯裁判にかけられた幹部らは朝鮮人日本軍将校だが、当時は朝鮮及び台湾の全住民は国際法上日本国籍であり、多民族国家であった大日本帝国において、彼らが日本軍将校という事実は変わらず、洪中将らは処刑された。
(引用終わり)
この文献を信じるならば、宮崎監督が言及した残虐行為があったことは本当のようです。日本軍の判断、行為に問題があったことも明らかです。しかし、占領下で保護している筈の市民の多数が敵側から武器の供給を受けゲリラ化している状況で、保護が出来ますか? これは利敵行為ではなく戦闘行為で、統治する軍としては掃討する以外の選択肢はありません。
さらに、米軍は都市部を無差別に砲撃しました。その被害者がどれだけいたのか、数字は残っていません。
つまり、無辜の市民10万人が犠牲になったのは事実として、そのどれだけが日本軍の責任だったのか。そうしたグレーな部分を無視して、声高に日本軍、日本人を非難する行為に正当性があるとはわしには思えません。
そして、「彼ら」とはどういう意味なのでしょう? 今の日本人、つまり自分とは別の第三者、と言いたいのでしょうか?
宮崎監督は1941年の生まれで、終戦時には4歳だったことになります。つまり戦後の戦争がない社会で育って来た世代です。この人の親、祖父の世代には戦死者がいたことでしょう。それは日本人がすべからく経験していることです。しかしこの人は自分が戦場で戦った訳ではない。つまりこの人がこうして全日本人を断罪する材料はすべて伝聞であり、自分が経験したことではありません。戦後の混乱はあったにせよ、戦後社会でぬくぬくと平和を享受し、平穏な生活を与えられた世代がそうすることは正当な行為なのでしょうか?
当時の海外に展開した日本軍がどういう思いで戦っていたか。末期には志願して特攻作戦を繰り返した兵士達の心情をこの人は、一度でも考えたことがあるのでしょうか? その兵士達の心にあったのが、祖国の安寧平和だけであった、とは僅かでも思い及ばないのでしょうか?
それがどれだけ軽佻浮薄、短絡的で独善的な行為なのか、この人は考えたこともないに違いありません。
この人はアニメを通じて世界的に日本の評価を高めてくれたのは事実です。
しかし、こうした場でこの醜い自虐史観を披瀝し、自らが進歩的知識人であるとアピールすることは醜悪でしかありません。
共産主義者は明らかに国家転覆が狙いなのでその点は明白です。しかし、この手の「良心的」左派はこうして自分が如何に良心的、進歩的で人類愛に満ち溢れた存在であるかをアピールすることが存在意義になっています。
そのツールとして祖国をこき下ろし、先人の行為を完全否定し自国民を断罪する。これ程罪深い行為が他にありますか?
増してやこの人は世界的な有名人でありその影響力は計り知れません。その人が公のメッセージとして自国民を罪人であり未来永劫、謝罪を続けろ、と命令なさる訳です。
この人は自分のこうした発言が、日本人の子供達、若い世代に与える影響を少しでも考えたのでしょうか? この言葉を聞いた世界中の人達が日本をどう見るか、どう思うかを一瞬でも考えたのでしょうか? こうした発言を否定するために、世界中で暮らす日本人がどれだけの労力、言葉を使い周囲に釈明をせねばならぬか、僅かでも思いを馳せたのでしょうか?
わしは思います。これこそが老害。
事ある毎にこの調子で自国民を蔑み、断罪し、大罪人であると世界中で吹聴されたら、それこそ国益に反します。
この人のこの発言の為に、どれだけの日本の子供達が「日本ってそんなに悪い国なの?」と顔を曇らせ両親に尋ねることでしょう? この発言の為に、世界中のどれだけの人が親日から反日に転ずるでしょう?
わしには許せません。この人は自分の影響力を利し、自分の善人アピールの為に祖国を売り飛ばした。売国行為に他なりません。
わしはジブリのアニメ、それなりに観て来ました。好きな作品もあります。しかし今後一切、観ないことを宣言します。
ジブリファンの皆様、フレンド登録解除なさるならどうぞ。わしは自分の主張を曲げることはしません。それこそが民主主義国家、日本に住む意味でしょう?
皆様、良い年の瀬を。
(短信1.)上でバスフィードの記事を引用しました。驚きましたよ。朝日新聞系なのでわしは普段は相手にしませんが、今回は他に全文を掲載しているメディアが見つからなかったので仕方なく選択しました。
そして、その記事を読むと、意外や意外、これがバランスが取れた書き方がしてありました。
(上のバズフィードの記事引用)
宮崎監督が受賞メッセージで訴えた民間人殺害は「マニラ大虐殺」とも呼ばれています。
Dialogue for Peopleによると、日本軍は1941年12月8日の真珠湾への攻撃後、アメリカ統治下のフィリピンに上陸。1942年1月にはマニラを無血占領しました。
その後、太平洋戦争末期にフィリピン奪回を目指すアメリカ軍がマニラに攻め込み、日本軍は抵抗しました。これが1945年2月3日から1カ月間行われた、マニラ市街戦です。
この日米の戦いに巻き込まれて、マニラ市民10万人が亡くなったと言われています。
一橋大学学長で歴史学者の中野聡氏は、「マニラ戦の実像と記憶」という原稿の中で、「近年の戦史研究は、民間被害の6割を日本軍による殺戮、4割を米軍の重砲火による死亡と推定している」と説明しました。
また、「マニラ戦は、民間人を大量虐殺するなどの日本軍による戦争犯罪の舞台」となったとも記載しています。
(引用終わり)
これね、「日米の戦いに巻き込まれ」とはっきりと書いてあります。つまり、日本軍の残虐行為により、とは言っていない。この差は無限大です。
この記事は安藤健二さんという方の署名記事になっています。バズフィードの寄稿者にこんな良心的なジャーナリストがいたと知り、わしは嬉しくなりました。
↑ Manager、とあるけどこの人が編集長なの? もう朝日新聞系ではないということ?
何れにせよこの件でわしの中でバズフィードの評価は上がりました。これからは敬意を持って扱います。
(短信2.)この件について、国内最大の権威は一橋大学学長の中野聡先生のようです。
http://nakanosatoshi.com/2016/01/26/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E5%B8%82%E8%A1%97%E6%88%A6%E2%94%80%E2%94%80%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%A8%E8%A8%98%E6%86%B6%E2%94%80%E2%94%80%EF%BC%88web%E7%89%88%EF%BC%89/
一読すると、先入観なく淡々と事実ベースで結論を導くアプローチのようで、日本の国立大学の偉い先生にしては立派な態度とお見受けしました。このような良心的、常識的な先生が増えると日本の大学教育は正常化に近づくのでしょう。
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