- 名前
- イチゴちゃん
- 性別
- ♀
- 年齢
- 43歳
- 住所
- 茨城
- 自己紹介
- 嫌がらせを受けていたのでコメント返しませんが それでもいいという方仲良くしてください...
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~乗り越えて~
2017年03月28日 21:36
今でこそ、外見の全く違う2人が当たり前のように「親子」してますけど
当初は何もわからず(好みや好きなこと、食べ物など)
手探りをしたくても、心を開いてもらえずで
けっこう私なりの「苦労」ってヤツをしてました。
ただ、「苦労」だとは思ってないので
あくまでも表現としての「苦労」とご解釈くださいませ。
私は本当に、娘に関して「苦労」したと、心底思ってないんです。
最初に会ったのは、寒さが始まったイギリスで
親友が2度目のガンにかかり(一度目は奇跡のように、軽い治療で完治しました)
親友自身が終活をはじめたとき
親友には頼りになる親類が一切おらず(境遇は私と非常に似ています)
周りの友達に子どもを託すには、少々不安だった様子(どこの家庭も、自分の子を優先するのは当たり前)
かと言って、施設にそのまま入れるのも不憫だと考えたようで
親友が腹に決めていたのが
「かつて共に過ごした日本の妹(私のこと)が、もし約束を覚えていてくれるのなら(私たちに何かあったら、お互いに助け合おうという約束)
妹に娘を託したい」
という想い
私に一番に声がかかったのは、そんな理由
なので、私に親友から連絡が来た際も
「もう、来年にはあなたと話せないと思うから
最後に会わない?」でした。
もともと、病状を聞いていたので
(来るべきときが来たのかな)と思っていた私は、会社を休み渡英
宿泊先も決めず、渡英目的も入国カードで(お見舞い)としか答えず(かなり空港で時間をとられました)
そもそも自宅へ行った事もないので、とりあえずSIMカードを買ってスマホを頼りに電車を乗り継ぎ
ヒースローからバーミンガムへ
親友はベッドから起き上がるのも辛いという日が多くなった頃で
ちょうど私が訪問した日も、そんな感じ
入院を拒み、自宅にて息を引き取りたいと切望し
定期的に医師が往診にやってくる日々を送る中で
「娘はどうしよう?」という想いだけが心残りだったようで
私に会ったときも、久々の再会(電話ではしょっちゅう話したりしてましたが)の挨拶もそこそこに
「娘をあなたの娘として迎えられない?」の台詞が一番にでました。
今だから言いますけど、最初私は「No」と言われたんですよ。
親友にではなく、娘にね。
「ママが死んだら、私はこの家に住み続ける。
大人になるまでここを出ない(街を出ない、の意味)」
という理由で、私の元へ来ることを拒否
そりゃ、そうですよ。
いきなり自分や母親と容姿の違うアジアンがやってきて
「今後ママになるよ」って言われたって
(何でですか?)ってなるよ。
そりゃ、生まれてからこの子と話したことは、幾度となくあるんですよ(スカイプなどで)
でも当時の娘からすると、私は(日本に住んでる、ママの妹的な存在)であって、ママではない
パパの女ではあるけれど、それは自分のママも同じ(この時すでに、我々の複雑な関係を親友は娘にしっかり伝えてました)
他人より、ママがいい
そりゃ、ものすごく当たり前ですって。
なので、あくまでも娘の同意なしで親友と私だけで話をすすめ
親友のお友達である弁護士(後の、私のロンドン勤務のボス)を交えて、法的手続きのお話
それと同時に、私は日本に住む両親に電話をして、事情を説明(同居なので)
両親は戸惑いながらも、私の意見を尊重してくれて
その場で契約書類にサイン
で、仮親子決定
こんな流れだったんです。
この間、娘の意思は無視
親友曰く
「私と同じような人生は歩ませたくない(親友もある期間、孤児院的な施設で生活したことがあります)
両親に愛されないだけならまだしも、両親がこの世界からいなくなるなんて
こんな悲しいことはない。
叶うなら、普通の幸せを娘のそばに与えたい」
そりゃ、至極当然の想いですよ。
そして、私はしばしの時間を親友と過ごし
今生の別れ。
そして、少しの月日がたち
親友は他界
ギクシャクした状態で、仮親子が始まったのです。
続きは後で。
このウラログへのコメント
なんか感動です。
なかなか出来ないですよね!
素晴らしいです!
ピタゴラスイッチ
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