- 名前
- イチゴちゃん
- 性別
- ♀
- 年齢
- 43歳
- 住所
- 茨城
- 自己紹介
- 嫌がらせを受けていたのでコメント返しませんが それでもいいという方仲良くしてください...
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生い立ち~8歳から11歳(レイプ事件)
2016年03月05日 01:15
表からの続きになりますね。
続いては小学校2年生からです。
学校の勉強には、何とか付いて行けてるんですけど
いかんせん「家族」を知らないので、
道徳の時間に読む「ヘンゼルとグレーテル」の兄弟愛の話とか
「桃太郎」のように、おじいさんとおばあさんのために鬼退治とか
まったく気持ちがわからなかったですね。
感情移入出来ないんですよ。
図書室にあった「シンデレラ」の物語は、少しだけ共感できましたけど
シンデレラって叩かれたりしてないですよね?
「叩かれないから、羨ましい」って思ってましたね。
母の日とか父の日が近づくと、作文を書かされるんですけど
「私のお母さん」とか「私のお父さん」って、勝手にタイトルを決められて
国語の時間に書かされるんですよ。
愛情もらったことないもん、書けないですよ。
まあ、これも後で知りましたが
担任の先生もある程度家庭の事情を知っていたようで
作文発表でも私は先生に指されず済みましたけど。
家庭訪問も、私だけ無かったですね。
だから、どういうお話をするのか知らないんですよ。
成績のこととか、学校の様子などを話すんでしょうけど
まあ、こんな親ですから私に興味も無いし、関係ないって感じなんでしょうね。
2年生の時の担任の先生が、大学卒業したばかりの綺麗な女の先生だったんですけど
色々とおしゃれの話をしてくれましたね。
この頃から、ファッションに興味を持ち始めたんですよ。
まあ、お小遣いもないので服なんか買えませんでしたけど。
相変わらず、ご飯はおばあちゃん家で済ませ、寝床は変わらず車庫の中。
この頃は夜のヒットスタジオとか、危ない刑事とか
夕方から夜までおばあちゃん家でテレビに夢中でしたね。
ドリフを観たり、暴れん坊将軍を観たり
大岡越前を観てたときなんかは、心の中で
「この人、バカ両親も引っ立ててくれないかな」なんて思いながら観てました。
小学校3年生では、担任の先生が変わって
当時45くらいの女の先生でした。
正義感が強くて、私の家の事情を知ってからは
色々と優しくしてもらえました。
勉強でわからないことがあると、理解するまで付き合ってくれたり
髪の毛をセットしてくれたり。
一度、私の親に憤慨して
怒鳴りに行ってくれたりもしましたね。
母親が狼狽えたのを見たのは、この先生が怒鳴り込んだ時が初めてでしたね。
担任が3年生の時の1年だけだったので、4年生になると交流も無くなっちゃったんですけど。
相変わらず、運動会ではお弁当無し
授業参観も、誰も来ないし
家庭訪問も無し
何も変わることのない、3年生でした。
4年生で、担任の先生が音楽の先生になったんですけど
その先生の勧めで、吹奏楽部に所属しました。
おばあちゃんも喜んでくれて、4年生にもなるとお友達も増えて
そこそこ「小学生らしさ」が出てきた感じでしたね。
トランペットだとか、コルネットが女の子には人気で
私も吹いてみたいと思ったんですけど
先生が私に進めてきたのは、ドラム。
女の子のポジションで、背がそこそこあるのは私だけだったので
そんな理由で先生があてがったんですよ。
運動会などでマーチをするんですけど
一番先頭に指揮者、その次が私だったので
全部を連れて歩いてる感じになって、いい気分でしたよ。
ドラムをやるようになってから、上級生に告白されるようにもなりました。
同じだけ、下級生にも告白されるようになりましたけど。
吹奏楽部は、卒業するまでしっかりやり遂げたので
私にとって、初めて最後まで成し遂げたものですね。
衣装も学校が用意してくれるし、秋の演奏会とかに行ってもお弁当が出るし
何も嫌なことがない、数少ないいい思い出の時間でした。
運動会のマーチで着る制服が、先生から貸出されたんですが
運動会近くになると、衣装を着て行進の練習もするようになって
毎日授業が終わると、衣装に着替えてグラウンドで行進の練習をするんですよ。
何度も何度もドラムを抱えて同じコースを演奏しながら歩いてを繰り返して
何日かすると、衣装のまま帰る子が多くなるんですね。
私も同じように、衣装を着たまま帰ったんですけど
これが悪かったんでしょうね。
自宅の車庫について、ランドセルを下ろして振り返ったら
ちょうど父親が帰ってきたところだったんですよ。
衣装はミニスカにスポーツブラみたいなやつの組み合わせで
チアリーディングの大学生が着てるような、セクシーな感じの衣装なんです。
父親がムラムラしたんでしょうね。
いきなり殴られて、倒れたところに圧し掛かってきて
服をはぎ取られて、パンツを脱がされて
父親もズボン脱いで、ギンギンに勃起したチンコ出してきまして
私を押さえつけて、挿入してこようとしたんですよ。
この時、セックスの方法はまだ知らなかったんですけど
保健体育で軽く教わっていたので、こんな男にチンコ入れられるのがとにかく嫌だったんですね。
口を押さえつけられて、片足を握られて
私のあそこに唾をペって吐いたんですよ。
今思えば、私のアソコが濡れてないから
唾で濡らして、入れやすくしたんでしょうね。
当時の私は、唾を吐かれたことで怒りが込み上げてきて
手が届く範囲にあった、ランドセルのホルダーに止めてあるリコーダーを手に取って
そのまま顔を「スパーン!!」って、力の限り殴ったんですよ。
リコーダー、折れちゃったんですけど
その時は必死でしたからね、ほぼ裸のままおばあちゃん家まで逃げました。
一人で行くのは怖いので、おばあちゃんに付いてきてもらって
脱がされたマーチの衣装とか、ランドセルを取りにきたんですけど
案の定、衣装は少し破けてて
リコーダーは折れてて、靴はどこかに行っちゃって
とにかく、人生で初めて襲われたのが怖かった日でした。
裸でおばあちゃん家に逃げ込んだときは、おばあちゃんもビックリしていて
最初はおばあちゃん、貧血おこしちゃってね・・・
よっぽど私よりショックだったんでしょうね。
「圭子ちゃんがレイプされた」って思ったみたいですから。
ああ、ご存じの方もいらっしゃると思いますけど
私の本名は「圭子」です。
まあ、ここではイチゴと読んでくださいね。
私が自分でつけた名前じゃないので、私のお気持ちはおわかりですよね・・・
名前つけるのって、親ですからね・・・
こんなことがあっても、おばあちゃん家で生活しようとしなかったんですよね。
何か理由があったはずなんですけど、思い出せない。
今度、おばあちゃん家に娘を連れて遊びに行ったら
それとなくおばあちゃんに尋ねてみますね。
結局、マーチの衣装はおばあちゃんが直してくれて
先生には「転んで破いてしまってごめんなさい」作戦で行きなさい、っておばあちゃんが教えてくれたので
その通りにしました。
下手に先生に正直に話して、私の傷口を広げることはないっていう
おばあちゃんの優しさだったんでしょうね。
大人になると、色々わかってきますね・・・
そんなことがあっても、吹奏楽は大好きだったので
運動会の行進も無事に済ませましたし、辞めようとも思わず
6年生の引退まで、無事に勤め上げました。
5年生になっても、担任の先生が4年生の時と同じ先生だったので
クラス替えがあっても違和感なく、たいして大きな事件もありませんでしたね。
強いて言えば、宿泊学習のときに
5年生の男子が30人くらいいたんですけど
半分くらいに次々に呼び出されて、告白されたことくらいですかね。
髪の毛とか伸ばし放題だったんですけど、ちょうど髪の長い女性のブームみたいのがあって
鈴木保奈美さんとかがドラマで人気だったんですよね。
東京ラブストーリー以降、すごく売れてましたからね。
あとは、元から髪の色が茶色っぽかったので
茶髪が流行り始めた時期でもあったんですよね。
時代に合わせて、私も持ち上げられた感じですね。
着ている服も、2年生のときに履いていたスカートとか履いていたので
自然とミニスカになってましたし。
おばあちゃんが服を買ってくれてたんですけど
買ってほしいっておねだりしたりしませんでしたから
ちょうどタイトなミニスカが流行っていたくらいだったので
私がスカートを履くと、スカートが小さくて
ピチピチ状態になるんですよ。
そりゃ、8歳の時のスカートを10歳が履いたらピチピチにもなるって。
この頃、おっぱいも大きくなりはじめたんですけど
まだブラジャーを持ってなかったので、そこらへんも男子にはツボだったんでしょうね。
しょっちゅう視線が、おっぱいに行くか
もしくは座った時のデルタゾーンに向けられてたのを、よく覚えてます。
このころ、父親のレイプ未遂と重なって
男子全員が汚いものに見えてきたころでしたね。
エロは最低で、イコール男子は最低なヤツ
こんな考えでしたけど、お菓子をくれるのも男子だったので
表面上は男子に優しく接してました。
見抜けないなんて、バカばっかりだな~って思ってました。
続く6年生は、また明日の日記で書きたいと思います。
今日はここまで!!
掲載元
http://blog-imgs-53-origin.fc2.com/a/m/a/amaturero/img4937.jpg
このウラログへのコメント
なんちゅう親父!!
言葉もない。
ほ~んと辛いね!救いは、ばあちゃんだったんだね(ノ_・,)
もう本名で呼ぶのは一切やめます。
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