デジカフェはJavaScriptを使用しています。

JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。

愛することと、性欲の対象とすることとの違い

2009年01月07日 23:36

ある女の人がウラデジに、自分のパートナーの男性が子供がいないときは、常にセックスをしたがり、それが過ぎるので自分は苦痛になってくる、だけど拒むと険悪な雰囲気になるので、受け入れてしまう、というようなことを書いていた。デジカヘのようなところがあって、女の人がこういうことを正直に書けるようになったことはとてもいいことだと思う。

ところでこれに近いことは私の若いころにもあった気がする。ともかく20代ぐらいのころは、いつもセックスがしたくてたまらず、
同棲していた彼女が夕食の支度をしていると、その後ろに回って
お尻に硬くなったズボンの中のペニスを押し付け、手で彼女乳房に服の上から触れて、彼女をその気させてしまうとぴうようなことは良くあった。性的な欲求の強い若いころはそれが自然でもある。そして性的快感に勝る快感は、心地よさはなく、その心地よさを味わうことが女の人を愛することだなどと思いこんでしまうことも自然なこととはいえる。女の人の深い喜びも、そう思わせる。

でもいろんなことを体験するなかで、性的快感、心地よさを味わうことと、女の人を人として愛することとは違うのだということが私にはわかってきた。単純にいうと、性的快感を味わいたいと言うのは性的欲望であり、それは相手を愛するということとは違う。それは性的欲望の対象として相手を求めるということなのだ。そこに相手に対する愛がないとき、ただ自分の欲望を満たすことばかりを優先し、相手がそのことに対して苦痛を感じていたり、その気になれないでいたりすることはに対しては無理解、共感を持って理解することをしなくなる。そればかりか自分の欲望を満たそうとしてくれないことに対して、男の気持ちを分かっていないとか、俺を愛していないのかとか言って不機嫌になる。
しかしそういう男は、いや私自身がそうだったのだが、彼女がそうしたくないということにたいして、その気持ちを尊重し、大事にするという、彼女を人として愛する気持ちがなく、単に性的欲望の対象として使っているという、自分の愛のなさには無自覚だ。

でも若いときはある意味で仕方がない。いろいろなことを体験して、そしてその意味を深く考えて、やっと分かってくるようなことなのだから。でも真剣に考えればいつでもそのことは自覚できるはずのことには違いない。

また女の人のほうにも、何か変だと感じながらも、肉体的な弱さや、経済的な弱さ、また女性としての普通の価値観などから、男の人の側の自己中心的欲望に対して、はっきり今はしたくない、体がしんどいのよとか、気持ちが乗らないのよとか、ちょっと今は子供のことでやっる必要のあることがあるのよ、と言っていかないような弱さがある場合がある。でもこうした気持ちのすれ違いは、耐えれば耐えるほど積み重なっていって、結局いつかは爆発したり
関係の破壊につながる何かを生み出していくことになる。だから本当は出来るだけ初めからそうしたことに付いて真剣な話し合いをしていく必要があると思う。
若いときはお互い未熟で、なかなかそういう話し合いが出来ず、感情的な対立が起こりがちだけど、そういう中でお互いの理解が深まり、本当に相手のことも理解しあえるようになり、お互い本当に相手を信頼し愛していると感じる中でのセックスは、多分単に欲望の対象として異性を求めるときとは違った深いものになると思う。

このウラログへのコメント

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントを書く

同じ趣味の友達を探そう♪

  • 新規会員登録(無料)

プロフィール

そよ風タンポポ

  • メールを送信する
<2009年01月>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31