- 名前
- くまごろう
- 性別
- ♂
- 年齢
- 56歳
- 住所
- 鳥取
- 自己紹介
- 最近は正しい近代史を中心にログを綴っております。 日本人であることを誇らしく思う今日...
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米軍は鬼畜だった
2011年08月16日 13:02
昭和19年6月、サイパンは米軍3個師団により地獄と化した。
米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたことを伝え(もちろんウソ)、隠れている日本人に投降を勧めました。
「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も十分に与えます。
もはや犬死にすることはない、今や死んでも花実は咲きません。
みなさんの投降をまっています」
その後米軍は、投降呼び掛けの放送とは裏腹な、人道上許し難い残虐な行為をしだした。
日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、その距離1キロ位先で展開された。
そこへ、三方から追われた数百の住民が逃げ込み、捕らわれた。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ。
婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理矢理トラックに積み込まれた。
そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。
婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫していた。
その声がマッピ山にこだまし、次つぎとトラックは走り出し、
彼女たちの声は遠ざかっていた。
なんたることをするのだ、小銃だけではどうすることもできず、此方の位置もしれてしまう。
この悲劇をただ見守るしかなかった。
(この婦女子はその後一人として生還しなかつた)
婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供老人の悲鳴があがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供達。その悲鳴。「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」の投降勧告の意味は。幼い子供が泣き叫び、絶叫する、
「おい、もう我慢ならん。撃て」
吉田軍曹が一発撃った、何の効果もなく、敵はもはや無関心。
残酷な行為は壮絶をきわめた。火から逃れ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、又火のなかへ付き返す。
死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛したり、銃で突きとばしては火の海へ投げ込んでいる。
二人の兵隊が滑走路際にいた、泣いている赤ん坊をみつけ、両足をもって、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。
「ギャッ」という悲鳴。人間が蛙のようにまたさきにされ殺されてゆく。
彼らは、その行為を平然としてやり、大声で笑い得意げになっていた。
日本軍は手を出せず、ただ合掌し霊をとむらうほかなかった。
田中 徳祐著 「我ら降伏せず―サイパン玉砕戦の狂気と真実」より抜粋。
このとき、一般人の虐殺は、ハーグ陸戦協定で禁止されています。当時の米国も署名している戦時国際法です。
当時、日本に対して連合軍は捕虜を取らないことで有名でした。
喰いぶちが減るからです。
英語をしゃべれる者は連行して拷問する。
その他は皆即銃殺です。
これについては、当時従軍していた大西洋無着陸飛行で有名なチャールズリンドバーグが従軍日記で書いています。
「1944年6月21日(水) 偵察隊の一人が日本兵”捕虜”に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に日本兵”捕虜”の頭部に腕が巻きつき喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで 切り裂かれた」のだった。
1944年6月26日(月)ニューギニア戦線で2000人の日本人捕虜を飛行場に連れて行き機関銃を乱射して殺害しました。
1944年7月24日(月) そこには1人の日本軍将校と十人~12人の日本兵の死体が、切り刻まれた 人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま 横たわっていた。頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。
1944年8月6日(日) 「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に 送らねばならなくなった時のことを知っているかね?あるパイロットなど 僕にこう言ったものだ・・・。捕虜を機上から山中に突き落としジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
出典、『孤高の鷲 リンドバーグ第二次大戦参戦記 』上下
学研M文庫
著者/訳者名 チャールズ・リンドバーグ/〔著〕 新庄哲夫/訳
戦後、日本の悪行として有名になった「バターン死の行軍」と名づけられた捕虜移送作戦がありました。
いきなり数万人もの捕虜を獲得してしまい、トラックも間に合わないまま、安全な場所へ移送する手段として、徒歩で移動するしかなかった日本軍は、米英の捕虜に水筒だけを持たせ、自分たちは60キロもの荷物を背負い、小銃を持って一緒に徒歩で移動した。
夜営では、日本軍が炊き出しを行い、捕虜に食事を取らせた。
米兵たちは多数がマラリアにかかっており、普段から車両移動に慣れ、徒歩で移動することをほとんど経験してなかったこともあり、疲労で次々に倒れていった。
亡くなった捕虜の死体は、日本軍が担架で移送先まで運んでいいます。
これがいわゆる「死の行進」です。
もし米軍のように皆殺しにしていれば、このような汚名は着せられなかったのかもしれません。でも日本人の道徳観として、そのような残虐非道な行為は出来なかったのです。
当時の戦時国際法を遵守したがために着せられた汚名。
かたや戦勝国は国際法も守らず、虐殺すらもみ消すことが出来る。
この手の話は、今ではネットで比較的簡単に探し出すことが出来ます。
いまや大日本帝国軍人は世界で一番紳士的な軍人だったというのは、世界の常識です。
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