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小田原~♪・・・( ̄∇+ ̄)v

2009年09月09日 14:05

小田原~♪・・・( ̄∇+ ̄)v

工事現場は神奈川県小田原市

旬やね~♪

興味無い人にはぁ~♪
全然つまんない内容のログでっせ~♪

小田原城・・・(-ω-;)
またの名を「小峯城」「小早川城」・・・

戦国時代では
北条氏政の居城・・・・
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戦国時代に新興大名として台頭した後北条氏は
武蔵国進出を志向して両上杉氏を駆逐し、
甲斐国の武田氏駿河国の今川氏との三国同盟を背景に
関東進出を本格化させると関東管領職を継承した
越後上杉謙信と対峙し、
特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において
上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。

戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する

http://static.flickr.com/2531/3902170795_241babdc3f_o.jpg
甲斐の武田信玄がそれまでの北進策を転換し
駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため
北条氏は甲斐との同盟を破棄し、

http://static.flickr.com/2605/3902170743_fffc4d0431_o.jpg
越後上杉謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、
やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。

信玄が西上作戦の途上に急死した後、
越後では謙信の死によって御館の乱が勃発。
勝頼が上杉景勝支持に回ったことにより、
武田家との同盟は崩壊する。
1580年(天正8年)、氏政は氏直に家督を譲って
江戸城に隠居したあとも、北条氏照や北条氏邦など
有力一門の宗家に対する影響力を封じるため
実質的当主として君臨していた。


1582年(天正10年)、御館の乱により
武田氏と絶交していた後北条氏は
織田信長武田征伐に参加することとなる。
この戦いで上野駿河における武田方の諸城を
攻略したものの、戦後の恩賞は皆無であり、
北条家は織田家へ不満を抱くようになる。
本能寺の変信長が横死した直後、
織田家と断交滝川一益を蹴散らした神流川の戦いを経て
甲斐の支配を目論んでいた

http://static.flickr.com/2591/3902888500_f539a4ba4b_o.jpg
徳川家康との間に武田遺領を巡る天正壬午の乱が勃発する。
一時は信濃の大半を支配下に置いたが、
徳川方の依田氏の工作により真田氏が離反。
後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った北条氏は、
家康の娘・督姫を氏直に嫁がせ、
武田遺領のうち後北条氏が上野徳川氏が
甲斐・信濃を実質領有することで講和の道を選んだ。
しかし、徳川傘下となった真田氏は
勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒、
徳川氏からも離反し上杉家を頼ることとなった。

北条氏は徳川氏との同盟締結によって、
全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。
既に房総南部の里見家を事実上の従属下に置いていた
北条氏は北関東に軍勢を集中させることとなった。
下野佐野家を取り込み、
中央部の鹿沼城や真岡城などを寝返らせ、
宇都宮国綱は宇都宮城から逃亡した
那須一族と主導的な盟約を結び、
下野の大半を勢力圏とする。
さらに常陸南部にも進出し、

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奥州伊達政宗同盟を結ぶなど、
一族の悲願である関東制圧は目前に迫った。
しかし、追い詰められた佐竹義重らは
秀吉に近づくこととなる。

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豊臣政権側としても、
以前から後北条氏を警戒していたようである。
そんな最中、真田氏との領土紛争を起こした
北条氏は一旦は秀吉仲裁によって、
北条氏が沼田城を領有して紛争地域の大半を
北条領とする事で和解する事になった。
その和解の条件として秀吉
氏政・氏直のどちらかの上洛を要求した
(これは徳川家康島津義久・義弘兄弟が豊臣政権に従った時にも条件の一つとして行われており、上洛以後は過去の敵対行為は一切不問とされている)。
だが、後北条・真田双方ともその内部には
仲裁案に不満を抱く者もおり、
北条父子の上洛の話は実現しなかった。
代わりに板部岡江雪斎を使者として送り、
一旦は氏政上洛という返事もあった。
ところが、1589年(天正17年)11月、
北条方で沼田城将猪俣範直による
(真田氏の墳墓があったため、特に真田側の領有とされていた)
名胡桃城占領と言う事態を迎えたのである。
これに対し秀吉は後北条氏の惣無事令違反を非難して、
その討伐令を全国の諸大名に通知したのである。
範直の名胡桃城占領に関しては、範直の独断ではなく
暗に氏政の指示があったという説もあるが定かではない。
同年12月13日
秀吉宣戦布告の朱印状を以って陣触れを発した。

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豊臣側の主だった大名秀吉を除く)
主力:
豊臣秀次徳川家康織田信雄蒲生氏郷
黒田如水、羽柴秀勝、宇喜多秀家、織田信包、細川忠興、
小早川隆景吉川広家、堀秀政、池田輝政浅野長政、
石田三成、長束正家、長谷川秀一、大谷吉隆、
石川数正増田長盛、金森長近、筒井定次、生駒親正
蜂須賀家政、大友吉統、島津久保。約170,000
水軍
長宗我部元親加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治。約10,000
北方隊:
前田利家前田利長、上杉景勝真田昌幸、依田康国、丹羽長重。約35,000
総計約21万(推定)

北条側の主だった諸将
小田原城
北条氏忠、北条氏照、太田氏房、成田氏長、皆川広照、
垪和康忠、松田憲秀、笠原政晴、笠原政堯
その他の城:
松田康長(山中城)、北条氏勝(山中城→玉縄城)、
北条氏規(韮山城)、大道寺政繁(松井田城)、
北条氏邦(鉢形城)
総計約8万(推定)


1590年(天正18年)春頃から豊臣軍主力が、
かつて源頼朝が平氏打倒の挙兵の際に兵を集めた
黄瀬川周辺に集結。それを察知した後北条側は
ゲリラ戦法を以ってこれに対抗。
兵糧を焼くなど一定の戦果があったらしく、
豊臣軍の兵は忽ち食糧不足に陥り略奪や狩猟などで
食糧を確保していたようである。3月27日には
秀吉自身が沼津に到着。29日に進撃を開始。
進撃を阻む山中城には秀次徳川勢を、
韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。
山中城では一柳直末が討ち死にしたものの数時間の戦闘の後
落城し、松田康長は北条氏勝を逃して手勢を率いて玉砕
徳川勢は山中城落城の同日に鷹之巣城を、
翌日に井伊直政隊が攻城を開始した足柄城を4月1日に落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。
韮山城では攻撃側の10分の1しかいない城兵が
織田信雄勢を阻み包囲戦となる。そのため、
秀吉韮山城包囲のための最小限の兵力を残し、
織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。
水軍部隊は伊豆半島沿岸の諸城を落とし小田原沖に展開する。小田原包囲戦が始まると秀吉は余裕を各方面に
見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を築き、
千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。
また、富と権力を誇示するためのパフォーマンス
小田原やそれ以外のところで繰り広げることとなった。


一方、前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した
信州勢を主力とする北方隊は、
3月に入るや否や松井田攻略に取り掛かった。
大道寺政繁は嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、
連合軍の猛攻の前に4月20日についに降伏。
道案内をすることとなった。
その後、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月23日)と
上野の各城を開城勧告などで難なく攻め落とした。
一方、小田原包囲勢から主に徳川勢から兵力を抽出して
北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。
玉縄城(4月21日)、江戸城4月27日
武蔵の諸城を次々に陥落させると、
戦力を二手に分け、片方は下総方面に向かわせた。
浅野長政・内藤家長徳川家臣)らによる下総方面軍は
金城5月5日)、臼井城(5月10日)、本佐倉城(5月18日)と次々と落とし、逆に秀吉から浅野に対して敵である
房総諸将の不甲斐無さを詰って房総諸城の攻略は戦功として
認めないとする書状が送られたほどであったという。
もう一方は河越城を陥落させ、
岩付城も5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。
この房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落は、
各城の兵力のほとんどが小田原城の籠城戦のために
引き抜かれたために
最低限の守備兵すら確保できない状態での
籠城戦となったためである。
ある程度の兵士が確保されていた鉢形城や館林城などは
攻め倦み、そこでは進撃の速度は大幅に落ちている。

忍城攻めでは、石田三成大将、長束正家を副将
佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝などの
上野下野の諸将や真田昌幸を先鋒に押し立てて攻め寄せた。しかし、城方も城主成田氏長の正室を中心によく防備し、
また湿地の多い地形に三成も戦略をなくし、
膠着状態となった。
岩槻城を抜いた徳川勢の後詰もあったが、
戦況は全く変わらなかった。
そこで、湿地が多いことを逆手に取り水攻めを決行。
しかし、天候がよすぎて水が干上がり気味だった上に、
火矢対策で城方がどんどん水を城に引き入れていたため
失敗に終わり、最終的には城方が偶然堤防を切ったことによる出水で三成勢以下が大損害を蒙るという最悪の結末となった。この件により、三成は後年「戦下手」という
レッテルを貼られてしまったが、
三成の戦略が特に拙かったということもなく、
運やツキがあまりにも三成に向いていなかったとも言える。
忍城攻めは7月に入っても続いた。


6月に入ると、
小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や
逃散が頻発するようになる。包囲中、戦らしい戦と言えば、
太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが
北条側唯一の攻勢であり、囲む方は、
井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と、
6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった。
さらに、包囲中の5月27日には堀秀政が陣没するなど
、優勢とはいえ暗いムードが漂い始めた。
一方の後北条側でも外部との連絡が不通になり、
士気の低下は避けられなくなった。

そんな中、後北条側から離反の動きが見えるようになった。
氏長は忍城守備を家臣に任せて小田原につめていたが、
かねてから親しかった連歌の達人を通じ、
里村紹巴を介して豊臣側に内通する内約を取り付けたが、
未然に発覚し氏長は素蔵に押し込められる結果となった。
また、6月16日松田憲秀の長子であった笠原政晴が
数人の同士とともに豊臣側に内通していたことが発覚。
政晴一味の計画では忠興、輝政の両軍勢を
引き入れる手はずであったが、
一味の一人が江雪斎に計画を白状したため、
政晴は氏直により成敗され、憲秀も押し込めと相成った。
この成敗事件と6月23日に北方隊によって陥落させられた
八王子城から首多数が送られ、
また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが
北条側の士気低下に拍車をかけ、
6月26日には石垣山一夜城が完成したことが
北条側に決定的な打撃をもたらした。
俗に北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか
降伏するかで揉め、一向に結論がでなかった故事から
小田原評定」という言葉が生まれた。

7月に入ると、氏房、氏規がそれぞれ
雄利と家康を窓口として和平交渉に当たった。
そして7月5日、氏直は徳川勢の陣に向かい、
己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。
家康は氏直を雄利、次いで信雄の元まで護送し、
秀吉に氏直の降伏を伝えた。


戦後7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。
7月9日、主戦派であった前当主の氏政とその弟の北条氏照は
最後に小田原城を出て番所に移動。
7月11日、康政以下の検視役が見守る中、
氏規の介錯により自害した。これとは別に、
内通の手引きをした松田憲秀と早々に降伏して
主家を裏切った大道寺政繁に切腹を命じた。
氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は、
兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、
検視役に止められ果たせなかった。その氏規と当主氏直は
家康と昵懇の仲(氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知)が故に助命され、紀伊高野山に追放された。

一方、小田原城陥落と相前後して
鉢形城は6月14日に氏邦が突如出家するに及んで開城となり、
韮山城も6月24日開城
忍城は氏長の降伏を受けて使者が送られた。
使者が到着するまでの間に浅野長政との間で
ゴタゴタがあったものの、7月16日開城した。
これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡し、
秀吉はその後奥州奥州仕置)を帰服させ天下を統一した。
戦後、後北条の旧領は
そのまま家康に宛がわれることとなった。

う~ん長いっ!!(▼O▼メ)

でも戦国大名総出演ずらで~♪

おもしろいぞ!!日本史~♪( ̄∇+ ̄)v

全部読んだ人っているかい?( ̄ー+ ̄)

おつかれさま~♪

このデジログへのコメント

  • ぴょんきち 2009年09月09日 17:50

    (* ̄0 ̄*)ノ オォー!!興味の無い人のには子守唄だね~♪( ̄ー+ ̄)
    小田原はそんな街~♪> えまさん

  • ぴょんきち 2009年09月09日 17:56

    全部読んでくれたの?さんきゅ~♪ちょっとかじると面白いよ~♪
    小田原はそんな街~♪> 妖♪さん

  • ぴょんきち 2009年09月09日 17:56

    女性にはね~♪やっぱりイケメンがいないとね~♪
    小田原はそんな街~♪> える♪さん

  • ぴょんきち 2009年09月09日 22:32

    お猿のかごやだよ♪
    おつかれでした(o^∇^o)ノ> ゆうらさん

  • さくら 2009年09月09日 23:41

    難しくて、全部読めない~(笑)良く書いたね~あまり覚えてないけど私は一度行ったことがあるかも?

  • ぴょんきち 2009年09月10日 00:30

    女性にはね~♪日本史はつまらないかもね~♪> さくらさん

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