- 名前
- あきんちょさん
- 性別
- ♂
- 年齢
- 53歳
- 住所
- 埼玉
- 自己紹介
- お酒を飲むのが好きなので、一緒に楽しく飲める人、一緒に新しいお店開拓に付き合ってもら...
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昨日の続き
2007年12月06日 09:06
高専4年生の夏休み。入院生活開始である。
両親、兄弟は誰も見舞いに来なかった。誰一人見舞いに来なかった。
この時だけは無性に寂しかった。人恋しかった。
誰かと話がしたかった。
話し相手は、おばちゃんの看護婦さん。
下の世話まで本当に丁寧にやってくれた。感謝感謝である。
いまでも親交がある。
入院生活は悲惨だった。
とにかく体が動かない。当然だ。
全身骨折。首も痛めていた。腰の骨を折っていたので通常のベッドに寝れない。
両手両足とも複雑骨折のため横向きに寝れないのだ。
頭は頭上からハンモックのようなもので吊るされて固定されている。
で、どうしてたかと言うと・・・浮き輪の登場。
浮き輪の中にお尻を入れて腰骨の骨折を保護、当然上半身/下半身が持ち上がってしまうが頭が吊るされてるし、両足も複雑骨折のため吊るされている。
ちょうど良いのである。
両手は胸の前で完全固定。
とにかく身動きが出来ない状態。
同じ姿勢でいることがどれほど苦痛か・・・。
日常的にありえない格好で固定されている状態・・・。とにかく発狂しそうになる。
熟睡も出来ない。
夏と言うこともあり、汗もかく。当然放っておくと痒くなる。
かけない・・・。もぉぉ最悪。
1ヵ月半同じ姿勢で耐え抜いた。
腰骨がくっついたのを確認して、浮き輪とサヨウナラ。
ただ浮き輪が取れただけ。浮き輪がなくなっても腰を支点として「くの字」の状態は続く・・・。
さらに1ヶ月。ようやく吊られている状態から開放。
計2ヵ月半。同じ姿勢。首が動かない。意に反して全く動かせられない。
泣きたくなった。一生このままなんだと諦めた。
医者からはリハビリで筋肉が戻れば大丈夫と励まされた。
両手両足の骨がくっついたのを確認。ここで事故後3ヶ月が経過。
ようやくリハビリの開始である。首も少しずつ動くようになっていた。
まず、手のリハビリから。手は胸の前で固定していたので、伸ばせない。
2週間かけてようやく曲げたり伸ばしたりがユックリと出来るようになった。
次は握力。
電話帳を握るリハビリに入り、徐々に薄い本を握れるようにしていく。
子供向けの絵本ぐらいの薄さの本を握って落さなくなるまで2週間。
そこからゴムボールを握り始める。ボールも徐々に柔らかいものに変化させていく。
最後はスポンジのボール。完全に握りつぶせるようになって晴れてリハビリ工程終了。
そこから車椅子生活に突入。車椅子の操作がある程度自分で出来るようになってから足のリハビリ工程に入るらしい。
事故から半年が経過していた・・・。
体の心配もそうだが、学校の単位がヤバい。2科目で基準点以下を取ってしまうと
留年。留年だけは避けたい。一人で生きている。長く学校にいる余裕など全くない。
しかもうちの学校は年に2回しか試験がない。冬の試験も受験できず留年決定と思っていたら、担任が特例処置を取ってくれた。
初めてのお見舞いが担任。寂しいねぇぇぇ。しかも用件は病室での試験。
字が書ける状況ではないので、試験用紙を見て自分が口頭で回答する。
担任が書き写す。そんな段取りだった。
だが、事故時に頭を強く打って(頭蓋骨陥没してるんだから相当の衝撃)いて言語障害になっていた。しゃべりたくてもしゃべれない。
入院中、お見舞いのない自分は、看護婦さん以外の人と話す機会もなく言語障害には気付いていた。
しゃべれないジレンマ。泣くしかなかった。
先生は、そんな状況とはしらずに来てくれたのに何も出来ない。心の中で「ごめんなさい」と言うしかなかった。
気が付くと先生が泣いていた。ゴメンナ・・・と。つらい思いをさせてゴメンナ・・・と。
先生は帰っていった。
留年はしなかった。先生が本当の特例処置で進学させてくれていた。
先生は教授だったのに、今で言う准教授に格下になっていた。
自分の身を犠牲にしてまで救ってくれていた。
泣くしかできなかった。「ありがとうございます」が言いたくても言えない。
この時ほど人の厚意に感謝したことは後にも先にもない。
さらに続く・・・









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