- 名前
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- もう海外在住29年、定年もそろそろ始まり、人生のソフト・ランディング、心に浮かぶこと...
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オランダのテレビ
2007年11月21日 10:32
子供の時からテレビが好きでよく見る。 見方も歳をとるにつれて変わる。 変わらないものもあるのだがそれをも含めて見方が移っていく。 だから子供達の見る、意味もないばかばかしい番組を眺めていて今、一概に馬鹿馬鹿しい、とは簡単に批判できない。 子供達の興味の行くところ見たいものはまさに若者が好むもので、そこでは40年前の自分と興味がかわらないようでもあり、それを見て役に立つか立たないか分からないものの興味に惹かれて見ている、というようなことだ。 若者の瑞々しい感覚に訴えるものが多い。
オランダのテレビは面白い。 民放は年寄りの私から見れば見るべきものはほとんどない屑番組ばかりだ、と言ってもいいがそう言うと子供達からブーイングが巻き起こるだろう。 じゃ、見なければいい、面白くもないオランダ国営放送をみるか英国BBC,フランス、ドイツ、ベルギーなどの国営局をみてればいい、と言われるだろう。ベロルスコー二の馬鹿馬鹿しいイタリア局、ライウノを見てもいいよ、とも。
オランダの国営放送にはニュース、報道、ドキュメント、政治、文化、メディア、スポーツ、ニュース等の情報中心のほぼ中立放送局があり、その政治、宗教的、文化の違いを民主主義に反映してきた放送文化の伝統の中で主義主張のグループもそれぞれの製作局を持ちその局の支持者、会員の数で放送時間を割り当てる。 勿論、色々な局が主義主張、宗教観の違いなどからチャンネル数3でそれぞれ放送時間という一つのパイを分けるのであるから、製作部門で協力できるなら他の局と組む、主義主張が違うならグループをつくる、といったぐあいで、最終的にそれをどのようにするかは文部省の放送部会で検討しそれが定期的にテレビ局編成、番組編成に反映される。 国営放送でも多彩である。 2時間に一度ほど番組の初めと終わりにコマーシャルが5分弱出る、国営放送ででもである。コマーシャルの質も民放と国営放送では大きく違う。 文化にはいくら金があっても足りるということはない。
民放はそれこそ自分でスポンサーを募りそれで経営していくのだから視聴率が大きくものを言うことは世界中民放の常であり、ここでも事情は同じく視聴者の情動、欲望、興味を掻き立てるもので他局と競争し、犬が人を噛んでも普通で面白くもなんともないが人が犬を噛めばテレビの材料になる原理の番組造りが多く、そういう意味で自由の国オランダの印象はこういうテレビを見た外国人によって作らるものが多いのだろう。 セックス、ドラッグ、ロックンロールがいい例だ。 こういう局では日本の番組の一部分が時々紹介されることがある。殆どが、「こういうこと、こっちではかんがえられない、信じられない(バカな、よくやるよこういうの、すごいなあ)」的なものが多く、それがこういう民放を見るオランダ人に日本、日本人の印象ともなる。
一方、地味に着実に作られ年配に支持されるものに宗教局が製作するものがある。 日常の着実な生活で敬虔に神を信じ隣人愛を心がける、というものが基本になっているのだが、時にはそれが度を過ぎると見ているものの腹が膨れる、というものもあるのだが、善を信じ隣人を助ける、というのは決して悪いものではない。 そして、それが我々の社会を良くするものであれば言うことがないのだがそこにはそれぞれの主張がからむ。 面白いのはもともとリベラルな宗教グループの局だったのがもう40年以上前か宗教色を一掃して社会の様々な局面に批判的に取り組む局もあり知的興味をそそられるようでそれをよく見る。 ときには過激でありさえする。
元をたどるとそのような国営放送枠に属する局にはキリスト教関係が多い。 キリスト教でも派がいくつもあり、カトリック派、プロテスタント派、プロテスタント派でもさらに、オランダ改革派、新教派、ルター派など、正統派から自由派まで多数の派に分かれていてそれらが個別、連合して放送局を持つわけだ。 けれど、アメリカのテレビ放送の例として挙げられるような教会の模様が延々と続くということはない。 自由なオランダ社会の中の伝統、文化の基である宗教感を繁栄させた番組造りであるのだが支持者は圧倒的に中年以上である。
宗教離れはこの30年ほど徐々に進み今の若者達が年に40回以上日曜礼拝に教会に通うということは極少数派になっているようだ。 核家族化、都市化、個人主義がかなりのところまで進んだ西洋諸国では普通のことでもある。 しかし、人の悩み、問題からの救済が中心になっている宗教の現在状況を見る製作態度には関心をひきつけるものがある。 世界、社会、個人に関して問題、悩みはつきないのが世界であり、それらの解決をもとめて観察、行動するメディアには時には感動さえ覚える。
しかし、神も仏もあって都合のいいときに助けてくれるのならそれにこしたことはないけれど、神は自ら助けるものを助ける、というように自分から努力をし尽くさないと手をさしのべに来ない、というふうになれば、別にいいわと言ってみたりの横着者、疑い深く、それを求めることもない不信神者にはそんなものかと、夜中に裸の女達が腰を振り、一攫千金の籤を誘い、一見便利そうな夜店の台所用品販売もどきの怪しげな番組がだらだらと続く民放のスクリーンをしばらく眺め、そのオランダのテレビの反対側では誰も観ることはないがヴィデオ録画で後に再生されることを期待して流す様々な制作費がほとんどかからないような市民大学的な講座番組の前でリモコンをあちこち動かして時間を過ごしたりするのである。
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