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青木繁 海の幸

2023年04月04日 10:54

青木繁 海の幸

1904年明治37年7月
東京美術学校卒業したばかりの青木繁(22歳)は同郷久留米出身で美術学校の同級生の二人坂本二郎(後、洋画文化勲章受章)と青木に布良を紹介し詳しく話してくれた森田恒友(10年後に渡欧しセザンヌの影響を受け帰国して二科会、のちに春陽会設立)、恋人福田たね17歳.4人で霊岸島(現日本橋京橋付近で伊豆七島航路があった)から旅客船に乗り翌朝館山に到着した。徒歩で布良の柏屋旅館に投宿。

私は館山駅からバスで20分でした。
40年前ドライブした布良は、豊後の海で育った私には正直感動するような海岸や海ではありませんでしたが今回の旅は、、、

途中バスの中小谷美術館の資料で、本日月曜日が休館を知り、今日は先の野島崎灯台に行けば良いかなと考えていると、まるで背中を押された様に停留所に着くと降りてしまいました。

崖の上のバス停の下に小谷家が見えています。見ておくだけでもいいかと家まで行くと入口が少し開いていて、どなたかいらっしゃいますか?と声を掛けます。

すると後ろの家から年配の男性が出てきて、御覧になりますか?
その方が小谷家の今のご主人福哲氏でした。

旅館柏屋で滞在費が無くなった青木繁一行を無料で食事付きで40日間も泊めてくれたのが、福哲氏の曽祖父小谷家当主喜鐵さん(30代)でした。

彼はマグロ延縄漁船を何艘も持つ布良のリーダーでした。布良の延縄漁船は最盛期86隻も居ました(危険な仕事で毎年死者が多く出ていました)

その水揚げの景色が海の幸のモデルです。
大きな鮫を前で担いでいるのが喜鐵氏、こちらを向いているのが若き恋人福田たねさん。

4人が寝泊まりし絵を制作したオクフタマは当時のままでした。

福田たねさんが青木繁没後50年の布良での記念の時、当時を思い出して描いた絵には布良から見た海に浮かぶ伊豆大島利島、敷根島、そして大島からは噴火した直後の三原山の噴煙が描いてありました。

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