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色心不二

2014年10月30日 22:52

色心不二

色心不二とは、色法と心法が対立的差別的存在であり、しかも一体不二の関係にあることをいいます。
 色心不二の色とは、形あるものの意で、認識の対象となる物質的存在をいい、心とは目に見えない精神を意味します。そして不二とは、而二不二ににふににといって、二にして二でないということで、差別即平等を意味します。
 すなわち、色心不二は、物質的存在と精神が、仏の悟りの上では融合した不思議の法であることを明かしているのです。
 古今東西の宗教者や哲学者は、肉体物質などのあらゆる客観的な存在は、心の主観による観念上のものにすぎないと説く唯心ゆいしん論や、物質こそが根源的存在であり、心は客観的実在である物の構成による反映であると説く唯物ゆいぶつ論などの思想を唱え、物質または心のどちらか一方に執われた考え方をしていました。
 しかし、天台大師は、摩訶止観に、
 「此の三千、一念の心に在り。若もし心無くんば已やみなん。芥爾けにも心有れば即ち三千を具す」
とあるように、一念の心法に三千の諸法が具足され、さらには、いかなる微少な色法にも同じく三千の諸法が具足されていることを明かしました。
 そして、六祖の湛然たんねんは、天台大師の一念三千の観心に基づき、色心不二等の十不二門を説いて法界の実相を詳しく明かしました。つまり、天台教学では、色法と心法には十界・十如・三世間の互具融通した三千世間が具することを説き、それは畢竟ひっきょうして不二であると説いたのです。いいかえれば、仏法では色法を離れて心法はなく、心法を離れて色法はないと説くのです。その上で天台は、一念に三千世間を証得するための観心修行を説いて衆生を導きました。
 ところが、天台の教えは、過去に下種を受けた熟脱の衆生に対して説いたものであるため、末法の本未有善の衆生を救う行法とはなりません。
 総本山二十六世日寛上人は、観心本尊抄文段に、
 「本尊に迷う、故にまた我が色心に迷う、故に生死を離れず」
と仰せのように、正しい本尊に迷うために物質的・精神的な苦悩や迷いが起こり、そのゆえに絶対的な安らぎもない、と教えられています。
 『御義口伝』に、
 「帰命とは南無妙法蓮華経なり。(中略)帰とは我等が色法なり、命とは我等が心法なり。色心不二なるを一極ごくと云ふなり」(御書 1719頁)
とあるように、自身の色心を南無妙法蓮華経と即座開悟された事じの一念三千の当体たる人法一箇の御本尊こそ、御本仏が悟られた境智冥合・色心不二の根本悟りであり、末法衆生が帰依すべき絶対の本尊なのです。
 ゆえに、『四条金吾殿御返事』に、
 「真実一切衆生色心の留難を止とどむる秘術は但南無妙法蓮華経なり」(御書 1194頁)
とあるように、末法衆生大聖人の御当体である御本尊を信受し、題目を唱える行体のところに、凡夫の迷いの色心は直ただちに御本尊の色心と一体となって、即身成仏の大利益を得ることができるのです。

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