- 名前
- そよ風タンポポ
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- 自己紹介
- 山仕事で鍛えたからだと、持続ずるエネルギイがあります。それと優しく触れ戯れることが好...
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不安な状況に対するある態度、金光教吉田先生の父のあり方
2010年02月13日 08:51
この間おいらの日記に何かかかわりのあることだろう、
熊本刑務所時代に良く話しを聞いてもらい、その話を良く聞いた、金光教の教誨師、吉田先生の話にこういうのがあった。
戦後まもなくの食糧難の時代でもあったろう、金光教の教会を営んでいた吉田先生の家族に、明日食べるコメが無いということが起こった。金光教のあり方では、宗教的な活動以外でお金儲けをしないようにするということがあった気もする。ともかく働いて金を得るというようなことはしていなかったのだと思う。しかも、金光教の活動の基本は、人の話を聞き、それに神の媒体になるようなあり方で応ずる、というようなことだったと記憶している。信者さんからの、そのことに対するお礼としての寄進が、唯一の収入源だったのだと思う。
先生の父親であり、当時教会の会長だった父上は、その日の夕方神様におまいりするということで家族を集め、コメがなくなったことを告げた上で、神棚に礼拝し、次のようにいったという。
神様、どうもこれまでおコメを与えてくださって、私たちの生活を支えてくださってありがとうございました。おかげさまで家族みんなが健康にくらして来ることが出来ました。ありがとうございます。
それ以外の願い事、どうかおコメが与えられますように、といった言葉は一切なかったという。
こういう話を刑務所の仕事が終わり夕食が終わったあと、教誨室に集まってきた(刑務官に連れられてきた)
受刑者20人くらいがいる場で、吉田先生が話されたのだ。
私は思いもしなかったような先生の父上の言葉に、何か深く心を動かされ、感動した。明日食べるコメも無い、家族が生活上のかなり不安な状況に直面しているのに、何も不安にもならず、心配なそぶりも見せず、ただこれまでおコメが食べられてきたことに感謝しますというだけだった。私のごく平凡な感じ方では考えもよらないような、意表をつく言葉であり、何か心を深くうならせられるような言葉だったのだ。
どんなに不安な心配なことがあっても、確かに今まで生かされてきたことのほうが大きなことであり、そのことに意識を向ければ、感謝する以外にない。平凡人である私は対、不安や心配事の方に意識が行く。でもこの金光教の先生の父上の言葉は、そんなときどき思い出しはする言葉になっている。それだけでも楽になる。
ちなみに金光教の神様の名前は、天地金の神という、何か物々しい名前だけれど、その神のあり方は教祖川手文次郎?さんが、次のように言っていたと思う。人間は神の間を縫ってあるっているようなものだ。天地自然ありとあらゆるものが神だ、神社のなかやお寺の中にいるわけではない。というようなものでもあったと思う。おいらははこうした金光教の教え、あり方に共感するところがある。
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