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ニーチェ、成田悠輔、社会工学思想
2024年03月20日 19:51
「老人は自決すべきだ」などと物騒な発言で、成田悠輔氏はキリンのCMから下されましたが、彼が書いた論文が公表されているので読んでみました。でもこれがイエール大学の助教(助教授じゃなくAssistantproffessor)が書いたものなのかと呆気に取られました。「民主主義国家は中国などの全体主義国家よりも、コロナの死者は多く、GDPの成長率も負けてるから、民主主義は見直したほうがいいぞ」というものでした。
確かに現象だけみればそうなんですが、タバコとガンの因果関係でも問題になっていたように、「民主主義体制とコロナ対策の失敗、GDP低下に因果関係あり」と判断する実証的なデータはなにも出されていないので、たとえばそれぞれの国家の政治体制ではなく、その国家の「宗教に対する態度の違い」が原因だとすることも可能なわけです。つまり成田さんの論文は思いつきだけで書かれていたのでした。これは学問ではなく、荒唐無稽なアイデアといっていいでしょう。
それよりも、論文の背景に、「いろいろな社会問題は社会をどう設計するかで解決できる」という上から目線の社会工学的な考え方があったことが気になりました。エリート特有のありがちな考え方ですが、実際には、社会は無数の人々の日々の生活をベースに、人々の経験からくる知恵が地域や会社などの組織における交流によって集合的に磨かれ、深められ、やがてそれが社会に実装されていくプロセスをたどるのであり、一部のエリートのアイデアだけで動くものではありません。
問題は、無数の人々の、目に見えない集合的な力が社会を動かしていることに無自覚だと、人々をエリートと大衆という線引きで区別してしまいがちだというこです。エリートのおごりですね。
それで思い出したのはニーチェという哲学者の考え方です。彼はキリスト教がベースにあるヨーロッパ近代を批判した、一筋縄ではいかない複雑な面をもった哲学者ですが、その批判活動の最後のところで、神が死んだのちに、「人間社会は超人と呼ぶエリートとそれにただ従うだけの奴隷とに分かれる」というビジョンを描きました。そして、どうエリートを育てるか、そのエリートが社会を支配するにはどうすべきか、奴隷とまじわらずに、奴隷をどう管理するかなどををせっせとノートに残したのです(ニーチェの陰謀論と呼ばれています)。
この考え方も突き詰めれば、エリートが社会をどう工学的に設計するかということになります。そしてこの考え方は、「優れた超人は劣った奴隷の運命を支配できる」という優生思想につながり、やがてそれは、ナチスが実行したような、「劣等で社会に有害な人間は殺害し、抹殺しても構わない」、さらにはいや、抹殺するべきだという政策を生み出してしまうことです。
成田さんの「老人は自決すべきだ」にはこの優勢思想の片鱗がありますし、それを批判せず放置すればやがては老人に限らず、さまざまな障がいを持つ者や病人なども「劣等で社会に有害な人間」としてレッテルが貼られる危険性があるのです。実際、最近でも、車椅子を利用している障がい者を乗車や映画館などで優先することをめぐって、「優先をありがたいと思わないような障がい者は社会のお荷物としての自覚に欠けていてケシカラン」などという、社会全体がいまだに車椅子を利用する障がい者が自由に動けるバリアフリーを実現できていないことを棚に上げ、障がい者に矛先を向けるヘイト発言がありました。
いまや誰しも口にするようになっている「自己責任」(あるいは「落ちこぼれ」)という言葉にも、「自分で責任をとれないような無能な人間は社会のお荷物だ」、という考え方が忍び込んでおり(いわゆる新自由主義的な考えかたですね)、これにも、だから社会から放逐しても構わないということになりかねない危険性があります。そこに決定的に欠けているのは、たとえば、自分が健康で障がいがなかったり、塾に行けたり、勉強ができたり、いい大学に進学できたのは、自分の努力のほかに、たまたまそれが可能になっていた状況(育ててくれた親にある程度の資産があったとか)のもとに生まれたからに過ぎないことと、その現状から(たとえば病気になったり、事故にあって障がいを抱えたりして)いつ転落するか分からないという人間が背負っている根本的な条件の自覚です。
ところでニーチェは最晩年は、精神を病み、死ぬまで病院に入ったきりになりますが、ある時、道路で荷を引く馬を撫でながら泣いたという逸話が残っています。馬はどれほど重い荷を運ばせられても、またたとえ戦場で兵士を乗せて突撃させられるようなことがあっても、何も文句をいわずひたすら人間のために働く存在ですが、おそらくはニーチェは、その奴隷のような在り方がいかに人間にとって不可欠であり、いわば同類、同志のような存在だということと、本来は人間の家畜=奴隷ではなく、自由に野山を駆け巡ることもできたのにと、その運命の悲しさに(そしてことに無自覚だった自分の超人論の愚かさに)涙を流したのではないかなどと私は想像するのです。私はまだ見ていませんが、最近『ニーチェと馬』というようなタイトルで映画もできたようです。
いささか説教じみた言い方ですが、「エリートと大衆」で区別されるのではなく、全員が大衆であり、大衆として共に助け合いながら生きること(そこには動物たちも含まれる)が当たり前であるような社会にしたいものです。
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