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赤穂義士の討ち入り:元禄15年12 月14日(1703年1月30日深夜)

2018年12月14日 19:20

赤穂義士の討ち入り:元禄15年12 月14日(1703年1月30日深夜)

元禄の討ち入りは、本日の12月14日でございます。
正確には、水瓶座(私の星座)の新暦1月30日です。

(*´ω`)

私は大阪に生まれ、育ちました。運命に導かれたのか、
「真田丸」跡の明星高校卒業することとなりました。
そして、緒方洪庵の「適塾」に学んで、塾頭になった
福澤諭吉の義塾に進学する。裏切りは非」と学ぶ

 れ き し 

歴史観ですが、「大坂の陣」で豊臣方が滅亡したのは、
真田幸村の戦功 が周りに嫉まれたことが原因では

元禄の頃までは、上方が文化的にも経済的にも日本の
中心だったのに、安土桃山文化の経緯を無視してる。

徳川家康は、息子の秀忠に比べ、豊臣秀頼が立派ゆえ、
会見の場で、「必ず、殺してやる」と嫉んだそうです。

もし、島津や毛利が、関ヶ原の戦いで裏切ることなく、
西軍の勝利に終わっていたら、日本の歴史は変わった。

裏切り」を行い、栄えても、後に滅んだ家系は多い。
平将門を裏切った藤原秀郷(ひでさと)の奥州藤原氏
卑劣な政略・横暴な搾取賄賂横行の摂関政治時代に
最新の軍事技術と高い戦略で、民衆に慕われて戦った。

勝ったはずなのに、流れ矢に当たって戦死した平将門
その雄姿は真田幸村と重なります…藤原秀郷の子孫に
大石内蔵助」が居て、裏切らないことを強いられた。

関ヶ原の戦いで裏切った島津・毛利は、江戸時代の末、
幕府方を殲滅させて、明治時代の藩閥政治利権独占。
西郷隆盛大久保利通高杉晋作木戸孝允は消えた。
1876年、西南戦争薩摩の士も時代の波に消えた。 

('ω')  この歴史観には、もっと広がりがあります…
日本がミッドウェー海戦で敗れたのも、「大坂の陣
と同じ理由ですー専門家の意見を聞き入れないで敗戦
アインシュタインルーズベルト大統領に核の脅威を
進言した時、即時にアメリカは対策を講じていました。

原爆開発し、過って日本に投下した米軍の核技術を
戦後、日本の原子力開発へ導入したのは正力松太郎で、
湯川秀樹の「日本に合った原子力発電所をつくれ」の
進言を無視したそうです。それが福島第一・第二原発
正力松太郎総理大臣になる野心があって急いだと…

平将門が早い時期に、源頼朝みたいな幕府をつくれば、
弱い源氏棟梁で、すぐに北条氏に滅ぼされたりせずに、
豪族(地侍)の家系ゆえに一族の繁栄しか考えられず、
外交もできない身分の北条氏とは違って、モンゴル
襲来(元寇)を避けられたと推察されます。北条氏は
外交が全くできず、3度目に来た元の国の使いを惨殺。
対応策が分からずに、恐れたらしい。日本では二度迄、
言葉を繰り返すことは許されますが、三度めに頼むと、
切腹させられるほど、3度目の使いは不興だったとか。
慌てて、幕府朝廷に進言したものの、朝廷も困って、
伊勢神宮に勅使を派遣して、敵の降伏を祈願しただけ。
情けない幕府の対応ゆえ、元寇の後、日本の国は衰退。
戦国時代へ至る下地ができてしまいました。ちなみに、
源頼朝先祖の源経基は、平将門にびびらされて逃げ、
将門の死後に戦場に駆けつけて、死ななかった弱い将。

弱すぎて、北条氏にも滅ぼされた。また、平将門の敵、
かつ、従弟の平貞盛も、ものすご~く弱い武将でした。
貴族の位がほしくて、参戦したものの、負けてしまう。
ラッキーに戦勝して、貴族になり、後に平清盛に続く。
彼らを破った源義経奥州藤原氏に贔屓にされていた。
しかし、藤原秀衡の子の泰衡は、父の死後、兄弟らを
殺してまでも義経の首を差し出して、自分だけ助かる
ことをしたために、まんまと計略にはめられて滅んだ。

結局、「裏切り」は日本の国では破滅に至る道らしい

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