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ゴーギャン

2010年12月16日 00:24

ゴーギャン

以下ウィキペディアより

1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーリマ亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

フランスに帰国後、ゴーギャンオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米インドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャン株式仲買人(証券会社の社員)となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、五人の子供に恵まれ、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。株式相場が大暴落して仕事に不安を覚えたとき、安定した生活に絶対的な保証はないと気付き、勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家グループをポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。

1888年には南仏アルルゴッホと共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。一般的にゴッホが自ら耳を切ったとされるこの事件だが、近年になり異説が唱えられ、耳を切ったのは実は剣を振りかざしたゴーギャンであったとも言われる(ゴッホ美術館専門家などは反論している)。


西洋文明絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期は、詩人マラルメのもとに出入りしたこともある) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した。


タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャン希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。

しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。

ポール・セザンヌに「支那切り絵」と批評されるなど、同時代の画家たちからの受けは悪かったが、没後西洋西洋絵画に深い問いを投げかけたゴーギャンの孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得していった。

イギリス作家サマセット・モームの代表作「月と六ペンス」(初刊は1919年出版)の主人公の画家モデルであった。


月と六ペンス - WikipediaThe Moon and Sixpence)は、1919年に出版されたサマセット・モーム小説画家ポールゴーギャンモデルに、絵を描くために安定した生活を捨て、死後に名声を得た人物の生涯を、友人の一人称という視点で書かれている。この小説を書くにあたり、モームは実際にタヒチへ赴き、ゴーギャンの絵が描かれたガラスパネルを手に入れたという。題名の「月」は夢を、「六ペンス」は現実を意味するとされる

作家である私は、ストリックランド夫人のパーティーに招かれたことからチャールズ・ストリックランドと知り合う。ストリックランドはイギリス証券会社で働いていたが、ある日突然家族を残して消えてしまう。私は夫人に頼まれ、ストリックランドがいるというパリへ向う。私がストリックランドのもとへ向かうと、駆け落ちしたといわれていた女性の姿はなく、一人で貧しい生活を送っていた。話を聞くと絵を描くために生活を捨てたという。私は彼を批判するが、彼はそれをものともしない。夫人は私からそのことを聞くと悲しんだが、やがてタイピストの仕事を始めて自立していった。

それから5年後、私はパリで暮らしていた。以前にローマで知り合った三流画家のダーク・ストルーヴのもとを訪れ、彼がストリックランドの才能に惚れ込んでいることを知る。ストルーヴに連れられストリックランドと再会するが、彼は相変らず貧しい暮らしをしていた。それから私は何度かストリックランドと会ったが、その後絶縁状態になっていた。クリスマスを前にしたある日、ストルーヴとともにストリックランドのアトリエを訪れると、彼は重病を患っていた。ストルーヴが彼を自分の家に引き取ろうとすると、妻のブランチは強く反対した。夫に説得されてストリックランドの看病をするうちにブランチは彼に好意を寄せるようになり、ついには夫を棄ててストリックランドに付き添うが、愛情を受け入れてもらえなかったために服毒自殺してしまう。妻の死を知ったストルーヴは、ストリックランドへの敬意を失うことなく、故郷オランダへと帰って行った。私はストリックランドに会って彼を再び批判した。その後私が彼と再会することはなかった。

トリックランドの死後、私は別の用事でタヒチを訪れていた。そこで彼と一緒に仕事をしていたというニコルズ船長に出会い、彼が船乗りの仕事をしていた時のことを聞く。貿易商のコーエンはストリックランドを自分の農場で働かせていたことを話す。宿屋のティアレは彼にアタという妻を斡旋したことを話した。彼の家に泊まったことのあるブリュノ船長は、ストリックランドの家の様子を話した。医師のクートラはストリックランドがハンセン病感染した晩年のことを語り、彼の遺作は遺言によって燃やされたとしている。私はクートラ医師の所有するストリックランドの果物絵を見て恐ろしさを感じていた。

ロンドンに帰った私は彼がどのような生涯を過ごしたのかを伝えようとストリックランド夫人に再会する。タヒチでのストリックランドのことを話し終えた私の頭には、彼がアタとの間に儲けた息子が、大海原で船を操っている姿が浮かんでいた。


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このデジログへのコメント

  • azamino 2010年12月16日 00:31

    1848年から1903年まで 55年の人生。

    昨年開催されたゴーギャン展で見た「我々は~」はみごとな作品でした。

    命を投げ打って描かれた作品は、心に訴えて来るものがあります。

  • azamino 2010年12月16日 15:19

    作家である私は~ は月と6ペンスの物語です。何回か読んでますが、解りにくい作品でした。azaminoがまだ若かったからかもしれません。1919年当時ゴッホはまだ無名、3流の~画家とはゴッホのようです。

  • dandy51 2010年12月17日 08:19

    POST-IMPRESSIONISM が好きなので、ゴーガンも好きです。
    有難うございました。

  • azamino 2010年12月18日 09:13

    > dandy51さん

    印象派後期なんですね、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌだとありました。
    セザンヌも大巨人です、絵を学べば学ぶほどセザンヌの偉大さを思います。
    評価されるまで時間がかかった3人です

  • azamino 2010年12月20日 15:54

    PostInp~後期印象派 印象派の後半ではなく印象派の後の時代という意味です。日本では最も人気があり、印象派以降はルーブルではなくオルセーに所蔵されています。ドガのパステル画はなぜかルーブルに。

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